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羽生善治が語る「将棋とAI」の未来 「AIは“わざと”負けられるか?」

» 2025年12月24日 09時30分 公開
[河嶌太郎ITmedia]

 かつて、「AIに接待将棋はできない」という結論に至った対談があった。棋士・羽生善治氏と、AI企業のエクサウィザーズ・石山洸氏によるもので、純粋に勝負するのではなく、接待ゴルフのように相手を喜ばせるための将棋は、まだ難しいというものだ。

 それから8年――。AIが演算能力で人間を遥かに凌駕した今、その問いは解決されたのか。

 同社のイベント「AI Innovators Forum 2025」で石山氏に再会した羽生氏が口にしたのは、「わざと負けることは容易」という事実と、その先にある「文脈(コンテキスト)理解の欠落」という本質的な課題だった。

 過去の経緯を切り捨て、「現時点の正解」のみを導き出すAIの合理性は、時に組織の歴史や個人のモチベーションを削ぎ落としてしまうのではないか──。前編【羽生善治が語る「“将棋とAI”の10年」 ビジネス界より先に活用、だからこその変化】に引き続き、羽生氏の言葉をヒントに、AI時代の経営者が直面する「合理性と組織文化のジレンマ」と、その突破口を探る。

棋士で日本将棋連盟前会長の羽生善治氏

「AIは“わざと”負けられるか」 羽生善治、8年越しの回答と「接待」の本質

石山: 日本将棋連盟会長時代は、AI時代ならではの対策をしていたことはありますか。

羽生: 将棋界は、他の分野と比べても非常にユニークな世界だと思っています。今のルールになってから約400年、広い意味では1000年以上の歴史を持つ、とても伝統的な世界である一方で、最新のテクノロジーの影響をこれほど強く受けている世界でもあります。 この伝統とテクノロジーの共存というユニークさは他になかなか例がない強みであり、その特性をどう生かしていくかを考えることが重要だと感じていました。

 ただ同時に、AIがこれほど強くなると、棋士が存在する意義は何か、人間の価値はどこにあるのかという問いを突きつけられることにもなります。組織としては、そうした状況の中で、どれだけ新しい価値や存在意義をつくり出していけるかが、これからの大きな課題だと考えています。

石山: 8年前の羽生さんとの対談では、「人工知能に接待将棋はできない」話で盛り上がりました。今あらためてAIに接待将棋はできるのかどうかお聞かせください。

羽生: 接待将棋については、「わざと負ける」こと自体はAIにもできると思います。ただし、「相手に気付かれないように負ける」ことができるかどうか(笑)。ここが本質的なポイントだと考えています。相手に悟られずに手を緩めるという部分こそが接待の重要な要素であり、そのレベルまで含めて実現できるかというと、8年経った今でもまだ難しいのではないかというのが自分の感覚です。

 ただ、そういう方向に技術を発展させていくこと自体はとても面白いと思っていますし、強くする、速く読むだけではないベクトルでAIを進化させていく方が、むしろ健全なのではないかという感覚もあります。

棋士で日本将棋連盟前会長の羽生善治氏(左)と、エクサウィザーズ エグゼクティブアドバイザーの石山洸氏

「正論」は組織を弱くする? 歴史と不合理性が生む“前に進む力”

石山: 当時の対談では、「将棋にはAIだけでは捉えきれない文化的な側面がある」話も印象的でした。駒の投げ方や所作も含めて伝統文化の一部だと話していましたが、今どのように思いますか。

羽生: やはり歴史の存在が非常に大きいと思っています。AIと人間の違いは、その歴史を踏まえているかどうかというところに色濃く表れているのではないでしょうか。長く続いてきた歴史の積み重ねがあって、その中で今の形やルール、所作が受け継がれています。

 一方でAIは、そうした歴史的背景をいったん全て排除して、現時点で最も合理的と思われる選択肢は何かをフラットに見に行きます。それ自体はビジネスの現場などでは大きなプラスになる場面も多いと思いますが、人間にとっては歴史や伝統がアイデンティティやモチベーションと密接に結びついている部分があります。そこを全く無視してしまうと、人が前に進む力そのものが弱くなってしまうのではないかという感覚があります。

 将棋には、過去の歴史や世代を超えて引き継がれてきた伝統的な側面が多くあります。そうした部分はこれからも残していかなければならないと感じていますし、一方で技術的な面や研究の方法は、どんどん刷新して前に進めていけばよいとも思っています。長い歴史があるからこそ、その歴史や文化を大切にする気持ちは、とても重要なのではないでしょうか。

AIがフラットにする業界の境界線

石山: 将棋界の未来像をどのように見ていますか。ビジネスの世界にも似た現象が起きてくると思うので、トレンドを考えるヒントとして教えてください。

羽生: 技術的な側面で言うと、レベルが上がれば上がるほど、一般の人にその凄さや面白さを伝えることが難しくなっていく問題があります。高度化がそのまま魅力の拡大やファン層の拡大に直結するわけではない状況が、既に見え始めていると感じます。

 一方で、いろいろなジャンルや業界の方々と将棋がコラボすることで、将棋を活用して新たな価値を生み出す可能性は大きく広がっているとも思います。もう一つ付け加えると、どうすれば魅力を広げられるのか、どう発展させていくのかといった問いは、本来AIがあろうとなかろうと向き合うべきテーマです。

 ただ、AIの登場によって、そうした本質的な問いと、今まさに正面から向き合わざるを得ない状況になっていると感じています。将棋に限らず他の分野でも、技術がものすごいスピードで進化している一方で、人間の時間は有限です。その限られた時間の中で何を選び、何に集中するのかという時間の大切さを、ここ数年とても強く意識するようになりました。

石山: ビジネスの世界でも、AIの登場によって事業領域の境界が急速に変わっています。将棋界における「ジャンル」とは、具体的にどういう意味合いで捉えていますか。

羽生: 自分の感覚では、AIは基本的にあらゆるものをフラットにする技術だと思っています。例えば将棋の局面を強くするための学習が1つのタスクとしてあります。日本地図を郵便番号で表現すると、二次元の地図を数字列に置き換えているのと同じように、画像認識も言語処理も、さまざまなデータが同じ形式のベクトルとして扱うようになってきました。

 つまり、これまで言葉が通じない、交流がない、そもそも関係がなかったと思われていた領域同士が、同じプラットフォーム上で扱えるようになり、交わったり、新しいものを生み出したりできる時代になったのだと感じています。

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