なぜ、“ハンコ屋”のシヤチハタが「赤字のIT事業」を続けてきたのか? 社長に聞いてみた【前編】シヤチハタ社長インタビュー(2/2 ページ)

» 2024年03月14日 08時00分 公開
[田中広美ITmedia]
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「良いものを作れば売れる」時代の終焉

――ここから舟橋さんご自身について少し伺います。創業者一族のご出身でお父さまが先代の社長だったそうですね。次の社長を継がなくてはというプレッシャーはあったのでしょうか。

舟橋: シヤチハタは私の祖父が兄弟で創業しました。父は口数の少ない人で、怒られた記憶もなければ「ああしろ、こうしろ」と言われた記憶もありません。「会社を継げ」と言われたこともありませんでした。

 多くの皆さんがシヤチハタのネーム印を一度は使ったことがあるために、ありがたいことに社名は広まっていますが、当社はどこまで行っても中小企業です。私もいわゆるお坊ちゃん育ちではありません。

 英語が好きだったので、「ビジネスで使えるレベルで話せるようになりたい」と思い、大学卒業後に渡米してリンチバーグ大学経営大学院修士課程を修了しました。その後は就職活動をして広告代理店にお世話になりました。

 広告代理店での仕事は、1998年に長野で開催された国際スポーツ大会の開会式と閉会式に携わったのが最後になりました。その前年の1997年にアスクルなどの通販サービスが文具業界で始まり、業界全体が大きく変わろうとしていました。父に「(シヤチハタに)もし帰ってくるつもりがあるなら、この文具業界の変わり目を見ておかなければいけないぞ」といわれて、「この人がこういうことを言うのはよっぽどのことだ」と感じるところがあって、広告代理店での仕事に後ろ髪を引かれつつもシヤチハタに入社しました。

――老舗メーカーのシヤチハタも影響を受けるぐらいの変化とは、一体何が起きたのでしょうか。

舟橋: アスクルはプラスというオフィス家具や文具を手掛けるメーカーが作った通販事業会社で、問屋などの卸売業者を介在せずに消費者に販売するようにしたのです。

 それまではメーカーが問屋を通さずに消費者に販売するのはいわば「ご法度」で、シヤチハタも文具は問屋を通して小売店に納品し、顧客企業には納品店を通して製品を納めていました。

 アスクルは通販事業を通じて消費者と直接コミュニケーションすることで顧客の情報を把握し、「次の需要」に備えられるようにしました。

――「ものを作れば売れる」という高度成長期の延長線上からの転換期が訪れたわけですね。

舟橋: それまではそれなりのメーカーが作った「良いもの」を流通に乗せれば必ず売れる時代でしたが、そう簡単にはいかなくなってきた。便利なものを手に入れる方法がいくらでもある中で、いかにお客さまのニーズを探っていくのかが重要になりました。

 当時のシヤチハタは、特に文具には「流通頼み」のところもありましたが、それからは「お客さまが今、何に困っているのか」「次に何が欲しいと考えているのか」を聞く機会をなるべく多く作るように取り組んできました。

 その後、リーマンショックで企業における事務消耗品の購買量がかなりシビアになった一方で、一般消費者向けの市場にはあまり影響が出ませんでした。そこで、B2C(BtoC)の商品にも力を入れるようになりました。

 日本のユーザーのニーズは繊細で、商品カテゴリーも細かく分かれています。ペンであればちょっとしたタッチの違い、色の違いのある商品を開発していく。ドイツやイタリアといった欧州の一部にも繊細な分類が存在する市場がありますが、その他の国とは比べものにならないぐらい細かいです。

 今はお客さまと直接コミュニケーションを取れるので、「こういう環境でこういう商品を出せばお客さまが『面白いね』と言ってくださるだろう」と想定しやすくなっていると思います。

――マーケティングに関しては広告代理店時代のご経験が役立つこともあったのではないですか。

舟橋: そうですね。ただ、どちらかというと私はシヤチハタをマーケティングがうまくない会社だと思っています。

 今はクラウドファンディングを活用したマーケティングなども行っています。クラウドファンディングは売り上げを追求したりするためではなく、マーケティングのツールとして使っています。

 お客さまの反応が予想しづらい新製品の開発ストーリーを、クラウドファンディングを通じて紹介して、反響を探っています。

シヤチハタは「“しるし”の価値」を提供する会社

――IT事業が軌道に乗りつつある今、舟橋さんご自身はシヤチハタをどういう会社だと考えていらっしゃいますか。

舟橋: 当社は時代や環境によってアナログの商品だけでなくデジタルの商品を提供するようになり、B2BだけでなくB2Cにも力を入れるようになりましたが、一貫して認証分野を中心とした「“しるし”の価値」を提供しています。

 実は、「印章」そのものにはそこまでこだわっていません。システムの在り方としては、承認者が承認すれば押印がなくても問題ありません。当社のデジタル決裁サービスを、押印された印影を使って決裁する仕様にしているのは、「今まで使ってきたハンコをデジタルで使える方が仕事を進めやすい」というお客さまの声があるからです。

 デジタル化に当たっては、ハンコ屋らしいこだわりも盛り込んでいます。実は、ハンコの印影は重要です。デジタルだからといって、ただの「円」の中に通常のフォントで名前の文字を入れただけではハンコで押したようには見えません。きちんとした印影でなければ、日本人にはハンコのようには見えないと思います。

 私も以前は、「ハンコの印影のデジタル化には大した技術は必要ない」と考えていたのですが、ハンコの印影らしく見せるのはバランスも含めてなかなか難しいですね。当社はオリジナルで書体を使って文字を製作してきたので、Shachihata Cloudでもいろいろな書体を選べます。同じ名字でも違う書体を選べることでお客さまの満足感が高まるのではないかと考えています。

Shachihata Cloud(出典:シヤチハタの提供画像) Shachihata Cloud(出典:シヤチハタの提供画像)

 ここまで、時代の変化に合わせて自社を変革し、さまざまな商品を提供したシヤチハタの事業の在り方を紹介した。後編では、文具メーカーでありながら他社のDX事業支援に乗り出した理由や今後の取り組みについて紹介する。

シヤチハタ 代表取締役社長

舟橋正剛

ふなばし まさよし:1965年愛知県生まれ。米国リンチバーグ大経営大学院修士課程修了。電通を経てシヤチハタに入社。2006年父の紳吉郎氏の跡を継ぎ、社長就任。シヤチハタは国内の他、海外6カ所に拠点を構えて事業を展開している。単体売上177億円、従業員数単体361人(2023年6月末時点)。


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