前回のDSD 11.2MHzに続き、今回はDSD音源配信のトピックとハイレゾ音源の最新動向についてAV評論家・麻倉怜士氏に詳しく聞いていこう。また、先日日本再上陸を果たしたスイス「REVOX」ブランドのネットワークプレイヤーもご紹介。
麻倉氏:「東京・春・音楽祭」は、3月中旬から約1カ月間かけて東京で開催される音楽祭です(今年は3月13日から4月12日)。前身となる「東京のオペラの森」から数えて今年で11回目。上野の上野恩賜公園を中心に東京文化会館や東京都美術館など、いくつもの会場を使ってオペラやオーケストラ公演、国内外で活躍しているアーティストによるコンサートなどが催されました。
その一環として4月5日に東京文化会館の小ホールで「古典派〜楽都ウィーンの音楽家たち〜」というプログラムがありました。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの室内楽を演奏するのですが、そこで世界初となるDSD 5.6MHzリアルタイム配信の公開実験が行われたのです。私も現場に取材で伺い、生演奏を聴くと同時にインターネット経由の音をモニタールームで聴き、その鮮明さに非常に驚きました。
この実験は、IIJ(インターネットイニシアティブ)、コルグ、Saidera Paradiso(サイデラ・パラディソ)、ソニーが共同で行ったもの。ご存じの通り、コルグはDSDに関しては非常に経験の深いメーカーです。今回はコルグはライブ音源のエンコードを、ソニーとコルグがDSD信号処理を行い、IIJがストリーミングプラットフォームとネットワークを提供しました。
全体の監修を行ったのは、マスタリング・エンジニアの第一人者として知られるオノセイゲン氏です。今回の実験もオノセイゲン氏がfacebookでソニーコンピュータサイエンス研究所(Sony CSL)の北野宏明社長と相談して、コルグやIIJを誘ったらしいですね。個々の会社が持っている技術を組み合わせることで実現したものです。
収録会場になった文化会館の小ホールではB&Kの「4006」という無指向性マイクを地上5.7メートルの位置に吊りました。通常ですとピアノの近くにマイクを配置するものですが、今回はピアノからの直接音とホールトーン(会場固有の残響音)の両方を1つのマイクで捉える狙いです。マイクからコルグのエンコーダーに入りますが、フェーダーはあってもイコライザーは使わず、シンプルなシステムで全く加工を加えない“素の音”を配信しました。
配信インフラを担当するIIJは、ベルリン・フィルの「デジタル・コンサートホール」(インターネットでコンサート映像をライブ中継やVoDで配信するサービス)でも実績があります。ベルリンで収録した映像と音声はロンドンに送られ、そこからIIJの回線を使って日本に届くのです。
DSDによる配信実験というと、かつてAES(Audio Engineering Society)のサンフランシスコ大会で2.8MHzの伝送実験を行ったのですが、1対1の通信でも途切れ途切れになってしまい、実用的ではなかったそうです。今回は不特定多数を対象とした“1対多”の配信で、しかも5.6MHzです。ハードルはさらに高く、もちろん世界初の試みでした。
――結果はどうだったのですか?
麻倉氏:モニタールームで実際にインターネットを介した配信の音を聴いたところ、やはり途切れましたね。配信では1分間のバッファをとっていたのですが、それでは間に合いませんでした。ただ、自宅で聴いていた関係者がいて、その人はADSLでも問題なく聴けたそうです。ですから、文化会館のネット回線(アクセス回線)が“いまひとつ”だったのでしょう。
――文化会館で行われた演奏の音を、わざわざインターネットを介して聴いたわけですね。
麻倉氏:そうです。すぐ近くの生演奏を「地球をなな回り半」して聴いたわけです。しかし、途切れたとはいえ、その音には驚きました。パッケージメディアやダウンロードした音源とは異なる次元の生々しさがあります。前回取り上げたDSD 11.2MHzの音源も生々しいと書きましたが、今回は現場で、まさに眼前で聴いているような臨場感を強く感じたことが異なります。というのも、東京文化会館の小ホールには小さな教会のような豊かな響きがあり、それでいて客席で聞いていると解像感も高く聞こえるという特徴があるのですが、それが実に生々しく感じ取れたのです。位相もぴったり合っていました。その結果の音場、音像感は実に安定していました。イコライザーなどの機器を入れるとどこかで位相の違いが出てくるのか、頭にすっと入ってこない音になるケースが多いのですが、今回は実に爽快な音場でした。オノセイゲンさんの考えたシンプルなシステムが良かったのでしょうね。
雑音も生々しいのです。例えば演奏者が譜面をめくる音、客席から聞こえてくる咳の音なども豊かに(?)聞こえました。演奏音もノイズも、生で聞く音ともパッケージメディアに入っている音とも違うんですね。もともとクオリティーの高い演奏ならば、DSD 5.6MHzになると格段にリアリティが増します。生中継ですから演奏が実際に行われている時間に聴けるというイベント性、共有性もあり、これまでのメディアとは違う新しい音楽の楽しみ方、新ジャンルの商品が出てくるのではないかという気がしました。
――ビジネスとして有望という意味ですか
麻倉氏:そうです。例えば文化会館の小ホールは数百人程度しか入れませんが、家庭でも共有できればそれは大きな会場を使うのと同じこと。ビジネスにもなり、演奏者にも還元できるのではないでしょうか。音楽業界では、パッケージ販売は年々減少していますが、ライブは増えています。これまで、音楽の流通形態はライブかパッケージメディアかしかありませんでしたが、今後はハイレゾ音源による生配信という新しい市場ができあがるかもしれません。
とくにクラシックはライブと家庭で体験に大きな差があるので、このような高音質生中継があると素晴らしいと思います。一方でオーディオ産業にとっても、高品位な機器の需要を増やすきっかけになるでしょう。
振り返ってみると、ステレオの発明をもたらしたのも“通信”でした。フランスの発明家だったクレマン・アデールは1881年のパリ万博で初のステレオシステムを公開しましたが、それはオペラ座と万博会場を2つの電話回線でつなぎ、両耳にそれぞれ受話器を当てて聴くというものでした。体験した人々は、臨場感たっぷりの音に驚いたそうです。やはり通信はオーディオ発達のきっかけを作るもの。インターネットを通じた生中継も音楽の聴き方にドラスティックな変化を与えるかもしれません。
――課題というか、気になる部分はありましたか?
麻倉氏:気になったのは、やはり雑音です。さきほど観客の咳もリアルに聞こえたといいましたが、実際の会場ではそんなに気にならないものでしょう。人は演奏に集中していると、背後で咳が聞こえてもあまり感知しません(いわゆるカクテルパーティ効果)。しかし今回のようにステレオ音源になると、全ての雑音が前方から聞こえてくるため気になります。ですから次の方向性としてはサラウンドもぜひ検討してほしいですね。もちろんDSD 11.2MHzで配信が行えればさらに良いと思います。
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