富岡第一小は第二小と第一中、第二中とともに9月1日、郡山市北東の三春町の工場敷地内にある管理棟を間借りして再開した。しかし戻ってきたのは、もともとの児童数400人をはるかに下回る18人だけ。あとはいわき市、郡山市内の小学校を中心に転入することとなった。また、18人では人数が少ないため、第二小の児童24人と一緒に授業をすることになった。
「学校を再開するまでは、児童を確認し、心のケアにあたることになった。いじめられたという話は聞かない。ただ、離れた地域では1人しか富岡の子どもがいないために、打ち解けないでいることはあった。そうした児童には教員が対応していた。ただ、転入先が広範囲だったために、すべての子どものところに行くことは不可能だった」(八島校長)
7月を過ぎると、郡山市内で学校の立ち上げについての協議が始まった。その結果、町役場が三春町へ移設することになったこともあり、「学校も三春町で」となった。初めは廃校を探したが、結果として現在の工場の管理棟になった。管理棟内部の工事も8月になってから始まり、9月1日の再開には、教室だけが何とか間に合った。学校給食は、給食室の設備がないために、町内の弁当屋から調達している。
「特技のある子どもたちは、新しい学校でも順応したようです。そのため、この学校に戻って来たのは、今までの子どもたちと一緒に学校生活をやっていきたい子、新しい環境ではなじめなかった子が多いですね。子どもたちの希望で来たのが多いようです。最近はぽつりぽつりと戻って来ていますが、爆発的に増えることはないと思う。最初は『本当にできるのか?』と思っていたのですが、何とか間に合った、という感じです」(八島校長)
少人数なので、子どもと丁寧に接する時間が長くなることはメリット。これまでよりも、ひとりひとりを大切にしていけるという。また、学校行事はなるべくやっていくことを考えている。原発事故で振り回された学校は、ようやく落ち着きを取り戻しつつある。しかし、原発事故はまだ収束していない。
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