2002年2月のまさに最終日、28日に私は出馬を決断、発表した。これが政治の玄人やメディアも「99%負ける」と言っていた選挙の始まりだった。
市長になった暁には、ムダなお金の見直しは言うに及ばず、あらゆる施策について聖域を作らずに見直しをしようと決意していた。そして、投票率39.35%、44万7998票対42万6833票という僅差で私が横浜市長に選ばれた。ゆえに、公約どおり行財政改革を断行した。その結果、市政に巣くっていた利権構造に手を入れることになった。至極自然の成り行きだった。
しかし、利権のあるところには、甘い蜜を吸おうという人々が集まってもいる。そこに無造作に手を突っ込んだのだからたまらない。蜂が巣の周りをブンブン飛び回るように反撃を食らうのは当然だった。というか、いくら汚い政治の世界とはいっても、ここまでとは思ってもみなかった。
改革をやる以上、恨みつらみも買うわけで、そういう意味では脇をしめて行動するようにしていたが、もっと用心すべきだった。とはいえ、「政治とは汚いものだ」と思い、返り血を浴びることに開き直っている自分もいた。そんな私に降りかかったのが、スキャンダルの嵐だったのである。
(中田宏「政治家の殺し方」、終わり。続きは書籍でお楽しみください)
→大阪の未来はバラ色か? 橋下市長にふりかかる困難【特別編・前編】
→なぜ橋下市長は「大阪都構想」を打ち上げたのか【特別編・後編】
→【第1回】“でっち上げ記事”を書かれたら、どうすればいいのか
→【第2回】日本は破たんするのか? そうはさせない人間の思考回路
→【第4回】公務員が、市長に「死ね!」というメールを送るワケ
→ 【第7回】「○○ちゃんが持っているから、僕も」という大人たち……恥ずかしいよ
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
Special
PRアクセスランキング