AKB48の第一章は終わった……では第二章は?:AKB48の戦略!(2/2 ページ)
2012年5月、インドネシアのジャカルタでJKT48が初公演を行った。専用劇場もオープンし、公演がものすごく盛り上がっているという。なぜ、AKBの海外進出はインドネシアからだったのだろうか? 秋元氏に聞いた。
成功しない理由を見つけない
田原:でも、例えば日本の映画は、海外ではまず当たらないとされている。なぜAKBが海外でヒットすると思ったんですか?
秋元:松下電器(現パナソニック)がMCA(ミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ)を買収した1990年頃、僕はCAAというエージェントと映画をつくろうと思ってハリウッドに行ったんです。でも、アメリカ側は日本人に企画なんか何1つ求めておらず、けんもほろろだった。ハリウッドには世界中の脚本家が書いた企画書がうずたかく積まれていて、日本から来たやつにわざわざ頼む必要はなかったわけです。「ミスター秋元、いくら持ってこれるんだ」って話ばかりで、このときは諦めました。
田原:90年は日本のバブル経済がピークに近づく頃です。カネがジャブジャブ余っていたから、彼らはそれを投資しないかと。
秋元:88年から1年半ほどニューヨークで暮らしたとき、主演オノ・ヨーコさんで僕の盟友の堤幸彦(当時は堤ユキヒコ名義)が撮って、『ホームレス』という映画をつくったこともある。結局、弁護士なんかを通じてオノ・ヨーコさんにたどり着き、映画をつくるところまではできても、配給ベースに乗せることはできなかった。なんとかアメリカに進出しようとしたんですけど、挫折したわけです。ようするに、日本に対する需要がなかったんです。
田原:別に、日本人を差別していたわけではなくね。
秋元:そうです。1つには、日本が英語圏ではなかったからでしょう。僕のなかでは「これは誰がやったって無理だ。音楽であれ映画であれスポーツであれ、全然求められていない。そういう時代なんだ」という感じでした。
でも、野球も無理というところに、まず野茂英雄が行った。95年2月、近鉄からロサンゼルス・ドジャースに入り、トルネード投法で大成功。日本人初で大リーグオールスターに選出されたし、ナショナル・リーグの新人王にもなった。僕もドジャースタジアムに応援に行って、すごいなと思いました。
田原:日本ではみんな、野茂は失敗すると思った。なんで成功したんですか?
秋元:成功しない理由を見つけなかったからだ、と思います。ダメかもしれないというときは、みんな理由を探そうとする。それを見つけて、やめておくんです。それをせずに、とにかく行ってみようと思った野茂英雄はすごい。
日本のプロ野球機構ともめようが無理だと言われようが、自分だけの「根拠のなき自信」を胸に渡米して、そこからすべてが始まった。やっぱり僕は、最初の1歩を踏み出す人が好きなんです。起業家の三木谷浩史さんも、スティーブ・ジョブズもビル・ゲイツも。
田原:それは僕もまったく同じです。どんなジャンルであれ、最初に突破した人に強く惹かれますね。(終わり)
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