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10周年を迎えたJava、その成功と逃したチャンスFocus on Technology

» 2005年05月06日 15時47分 公開
[IDG Japan]
IDG

 Sun Microsystemsが世界にJava技術を発表し、コンピュータ業界を恒久的に変えてから今月で10年になる。

 Javaは、開発者がサイト上でアニメーション画像を作成するためのプログラミング言語として誕生したが、最終的には携帯電話からメインフレームまで、あらゆる機器向けのプログラムに使える広範なソフトと仕様の集合に成長した。

 1995年、Javaは「一度書けばどこでも走る」というキャッチフレーズで人々の心を打った。このフレーズは、異なる種類のハードウェアでコードを走らせるために時間のかかるコンパイルを行わなくても済むようにして、開発者を楽にすることを約束していた。

 Javaの物語には素晴らしい成功もあれば、逃したチャンスや幾つかの厳しい訴訟もある。「ロケットに乗るようなもので、誰もこんなに身近になるとは思っていなかった」とSunの社長兼COO(最高執行責任者)ジョナサン・シュワルツ氏は言う。

 シュワルツ氏のコメントは、地味なJavaの10周年パーティーで語られたものだ。このパーティーは、SunのサンタクララオフィスにそびえるClock Towerビルの陰で行われた。

 Javaの生誕パーティーでは、元Sun従業員が社に残した同僚と抱擁を交わし、ちょっとした高校の同窓会のような趣だった。ビール、ピンクのポップコーン、アイスキャンデーが無料で振る舞われ、Sunはダンクタンクゲームを用意し、同社開発者の川原英哉氏によるちょっとしたパフォーマンスも行われた。川原氏は、Java生誕の時からマスコットを務めてきたDukeに似せて作ったウクレレを演奏した。

 このJavaの10周年は、1995年の時点では考えられなかったこととして記憶されるだろう。当時、JavaはFirstPersonという破綻したインタラクティブTVベンチャーが残した無名の技術だった。

 しかしWorld Wide Webの飛躍により、FirstPersonのチームはどうにかSunの法務部門を説得して、Javaのソースコードを一般公開するという先例のない動きに踏み切ることができた。

 Javaコードの再配布の方法に関する管理権はSunが握ったものの、ソースコードが自由に手に入るという点が開発者には受けた。「できるだけオープンソースに近いやり方をしたが、それでも企業としての体を保った」とJava作者のジェームズ・ゴスリング氏。同氏は今、Sunのデベロッパープロダクツ部門でCTO(最高技術責任者)を務めている。

 Javaは1995年5月23日のSunWorldユーザーカンファレンスで発表されるまでに、既にWeb開発者コミュニティーで話題になっていた。コミュニティーでは、静的なHTMLページ上で動く画像を作れるセキュアな言語が求められていた。SunがJavaをNetscape Navigatorブラウザに統合する合意を結んだ後は前進するばかりだった。

 開発者はJavaに飛びついた。1996年にはJavaのためのカンファレンス「JavaOne」が誕生し、6000人が参加した。その3年後には参加者が2万人を超えた。

 それからしばらくの間は、ハイテク業界全体がJavaの勢いに飛び乗ったように見えた。Hewlett-Packard(HP)、IBM、Oracle、そしてMicrosoftまでもがライセンスを受けた。

 「主要プレイヤーが皆支持を表明した。このような事態はそれまでに見たことがなかったし、その後も見たことはない」とJava開発者の組織JavaLobby.orgの創設者兼会長リック・ロス氏。

 Javaは最終的に、サーバに安住の地を見つけた。SunのJava 2 Enterprise Edition(J2EE)プラットフォームは、データベースなどのバックエンドシステムとWebの架け橋としてサーバで広く採用されている。またJavaは最近、携帯機器メーカー向けのプラットフォームとしても急速に成長している。Sunによれば、現時点で5億台を超えるJava対応機器がコンシューマーの手の中にあるという。

 しかし1995年を振り返ると、Javaはその成功と同じくらい失敗も際だっている。その中でも一番大きいのは、SunがJavaベンダーとして失敗したことだ。IBM、BEA Systems、Borland Softwareなどの企業がJavaサーバ・ツールの販売で多額の売上を得たのに対し、SunのJava製品は市場で成功しなかった。

 「IBMのソフト部門の成功は、Javaが刺激した――ある意味では作り上げた――ものだと言っても過言ではない」とRedMonkのアナリスト、ジェームズ・ガバーナー氏。「IBMは、自社のものではない技術を基盤に何かを構築することがうまくいくと知った。Javaの次に来たのはLinuxだ。この、いかにして他者のものを使って成功するかという考えは、IBMで大きな影響力を持っていた」

 Sunは、Javaにどれだけ投資して、どれだけ回収できたかをこれまで明らかにしてこなかったが、最近のIDG News Serviceのインタビューの中で、会長兼CEO(最高経営責任者)のスコット・マクニーリー氏は、詰まるところ、Javaの恩恵は間接的なものだと語った。「もしも10年前にJavaがなかったら、Sunは今どうなっているだろうか?」と同氏は問いかけた。「すべてがWindowsになり、われわれは終わっているだろう。開発者がJava Webサービスを書いていないのなら、.NET向けにサービスを書いていることになり、.NET向けに書くということは、Windows向けに書くことになる。Windows向けに書くのであれば、Sunの機器向けには書かないということだ」

 独自の開発ツール・アプリケーションサーバの失敗がSunにとって泣き所なら、デスクトップでのチャンスを逃したことは、同社にとっては開いた傷口のようなものと言える。MicrosoftのJavaの実装方法を主な争点とした7年間の激しい論争は、Sunのリソースを絶えず浪費していた。Sunは昨年、この訴訟の和解により約20億ドルを手にしたが、デスクトップでJavaに弾みがつくことはなかった。

 Javaの失敗の責めを負うべきはMicrosoftだけではないと、JavaLobbyのロス氏は指摘する。同氏は、Sunの「強情で横柄」な姿勢により、Apple ComputerやIntelのような企業がJavaに貢献しにくくなったと非難している。「当時Javaに熱中していたパートナーを見ると、Microsoftのせいで転向したか、Sunのせいで転向したかのどちらかだ」

 灰色の影は後になって黒に変わることも、白に変わることもある。SunがJavaに関して幾つかチャンスを逃したことは明らかだが、Javaが1990年代後半にいかに急速に、広範に成長したかを忘れてしまうのはたやすい。

 「非常の多くのチャンスがあったが、何をすべきかを知るのは難しかった」とSunのJavaプラットフォーム部門の副社長兼フェロー、グラハム・ハミルトン氏。「今われわれは、正しくやることがより重要な、より成熟した立場にいる」

 Javaの10周年パーティーでさえ、問題と無縁ではなかった。イベントの最中に激しい雨が降り出し、皆は慌ててClock Towerの下に走った。

 しかし空が晴れてくると、ゴスリング氏は――まだダンクタンクのせいでびしょぬれだった――マイクを取って、Javaが公式発表されるずっと前、同氏と開発者のチームがSunのオフィスを離れて、カリフォルニア州メンロパークのサンドヒルロードに仕事場を借り、コンピューティングの未来を描こうとした時の思い出を語った。

 彼らは最終的にJavaを生み出す開発作業を開始した。「われわれが描いていたシナリオは、サイエンスフィクションのようだった。そしてこれらのシナリオは実現した」と同氏は聴衆に向けて語った。

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