教授たちがプロデュースした「ロボカップ」は、西暦2050年にロボットによるサッカーチームが人間のワールドカップ王者に勝つことを目標に掲げ、世界各国から参加する自律型ロボットがサッカーを競う大会である。そう聞いて、どのような印象を感じるだろうか。
ぎごちないロボットが、つたないプレイを繰り広げて笑いを誘う、ちょっとユーモラスな競技会を想像するだろうか。
しかし実際のこの大会に集結するロボットの性能はすさまじい。最新鋭の機能を搭載し、最先端の情報工学を駆使して操作されるロボットの、複雑でシャープなプレイを見ると、ロボットが現実に街で、人にサービスを開始するのはごく近い将来。今すぐにでも実現するだろうと感じさせられる。
日本のアカデミズムの世界には「若いころは研究一筋でがんばりなさい」という雰囲気があり、「ロボカップ」開催のようなプロデューサー的な活動はちょっと苦手、といった風土があるそうだが、この「ロボカップ」は例外的に若手の研究者がリーダーシップをとり、日本発でヒューマノイド研究をリードしていく大きな大会となっている。
教授は、日本でヒューマノイド研究が盛んな理由を、「そもそも研究者の数が違うのだ」と指摘する。
日本のロボット研究者の質が欧米と比較して高いということではないんです。ただ、そもそもヒューマノイド研究者の数が違う。桁違いに日本のほうが多い。だから成果も大きいんです。また、日本では、もともと産業用ロボットの実用化が進んでいたのも重要で、マニピュレーターなどの技術もやはり高い。センサーの開発も日本はトップクラスです。
しかしでは、なぜ欧米ではヒューマノイドの研究者が少なく、日本には多いのだろうか。教授はその理由として、東洋と西洋の宗教観の違いを挙げる。
最近になってずいぶんと変わったものの、やはり西洋には、人が人間の形を模倣してロボットをつくることに拒否感が存在するという。
たとえばまだ若い研究者でも西洋では「人型ロボットの研究は、神への冒とくだ」などと言う人がいるのだそうだ。
キリスト教のように“創造主である神”という、絶対的な概念を持つ宗教は「神とその創造物の筆頭である人間」と「それ以外のもの」と区別する、二元論的な論理が働きやすい。
一方、東洋的な宗教観はより相対的で、「人間とそれ以外のもの」のとらえかたが連続的である。草木を含めて万物に心が宿ると考え、万物すべてを含めて命であると見なす。実際、この器には命があるといった表現を東洋では好んで使う、と教授は指摘する。
確かに、西洋には人工物が人を凌駕(りょうが)してしまうことへの恐怖が根強く存在するようだ。
1997年に、IBMが開発した並列処理型スーパーコンピューター「ディープ・ブルー」が、当時のチェスの世界王者ガルリ・カスパロフと対戦し、2勝1敗3引き分けで負かしてしまった。
このときIBMは一般社会の反発を考慮し、「コンピューターの知性が人を越えた」などの表現をとらないよう、慎重に言葉を選んで発表を行ったという。
しかしそれでも案の定、反発は生まれ「あの対戦はインチキだった」と主張する映画も製作されていたりする。
また日本のある企業は、人型ロボットを開発する際、まずバチカンにおうかがいをたてたと言う。そのメーカーへの反発がキリスト教圏で起こるリスクを考慮してのことである。
そういえば、アメリカの人工知能の研究者ロドニー・ブルックスは2000年に、テクノロジーが文化に対して及ぼす影響について語り合うポップテック会議で、わざわざ「SF映画や小説によってつくられたロボットに対する恐怖を忘れなければならない」と発言していた。
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