実際のところ、東京自体にも土俗的な伝統は濃厚に存在する訳で、普通の都市生活者だと思っていた東京出身の人が、祭りの季節になると股引を履き、ハッピを着て、刺青をいれたおじさんといっしょに地元の祭りに参加していたりする。しかもそうした人は、自分と地元の伝統とのつながりを、結構大切にしているものだ。
だがクリエーターとしては、メディアから発信されるトレンドを一生懸命追いかけている人よりも、どこかそうした土俗的な伝統につながっている人のほうが信頼できる気がする。
ただなのだが、マイルドヤンキー論が注目を集めるのにも理由があるはずで、私はそれもわかるような気がする。
ひとつには「新世紀エヴァンゲリオン」の成功以来、マーケティングの対象が、オタク的な社会集団にかたより過ぎたことの反動もあるだろう。さらに大きくいうと、あまりに仮想の価値が重視されるようになった現代社会において、身体的なリアルに目を向けたことの意義もあるかもしれない。
しかし私はヤンキーに「マイルド」とつけたことが、マーケティングとして秀逸だったのだろうと思う。
「ヤンキー」の対極になる人は、どんなプロフィールになるだろうか。大都市を志向する都市生活者。娯楽には健全さを求め、保守的な伝統からは離れて、市場原理主義の現代社会を遊泳する「おりこうさん」な人々。「マイルドヤンキー」という概念は、陰画としてそうした人々の存在を暗示しているが、彼ら都市生活者にとって、ヤンキーは本来、脅威である。具体的に義務教育時代に地元でいじめられた経験を持つ人だっているだろう。しかしそうしたヤンキーに「マイルド」とつけることで、安心して見られる対象にした。メディア的に言うと、笑ってもいいものしてしまった。これがよかった。
実は2010年の「ヤンキー進化論」のように、これまでもしばしば市場としての「ヤンキー」が取り上げられることはあったのである。しかし大きなうねりになるところまでは行かなかった。だが「マイルドヤンキー」が成功したのは、「安心できる対象」として描いた点が案外重要だったのだと思う。
ただ、しかしそれと引き換えにして、富田克也監督の映画「サウダーヂ」で描かれたような地方社会のやるせなさや詩情といったリアルへのリーチは、失ってしまった。
そもそも実際問題、日本のヤンキーの現実は「マイルド」と言って正しいものなのだろうか。
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