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映画公開記念! ダース・ベイダー VS. シャア 魅力的な“悪”の条件部屋とディスプレイとわたし(3/4 ページ)

» 2015年12月22日 17時49分 公開
[堀田純司ITmedia]

「ごく普通の青年」だった

 銀河皇帝パルパティーンであれば、自身の目的のためなら、恋愛感情などという私的な欲望は一顧だにしなかったことでしょう。事実ギレン・ザビは、父親でさえもおのれの障害となるのであれば、ゲルドルバ照準で焼き殺しています。

 アナキン・スカイウォーカーも、シャア・アズナブルことキャスバル・レム・ダイクンも、あらゆる才能を持っていた。個人的な武芸にも達し、人格も優れている。血統的にも、本人自身としても、カリスマ性まで備えていました。しかしただひとつだけ、ないものがあった。それは巨大な野望。

 「君のために世界を失っても、世界のために君を捨てることはしない」というのはジョージ・ゴードン・バイロンの詩ですが、アナキンは世界よりも恋人パドメを幸福にすることができたら、それでよかった節があります。しかし皮肉にも彼は逆に、パドメを失って、銀河帝国のNo.2となる。息子ルークに対して「2人で銀河を支配しよう」と誘いましたが、それが本気であったかどうか。彼は部下には冷酷でしたが、その権力に驕る描写は見られませんでした。

photo シャア誕生を描く「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」は今年第2話まで公開された

 シャアに至っては、自身が戦争の英雄として偶像視されることを常に「道化だ」と自嘲していました。

 彼らはパルパティーンやギレンのような、ボスキャラに要求される巨大な野望だけは持っていないという点において、ごく普通の青年だったのです。彼らの弱さを見る時、このことを念頭に置く必要があると思います。

 実は誰も、そうした生身の彼らを見ようとはしなかった。才能にあふれた彼らにもごく普通の若者の欲望と悩みがあることを、気がつくことさえありませんでした。

 アナキンは崩れたフォースのバランスを修正する「選ばれし子」としてジェダイの修行を受けることになる。ヨーダをはじめジェダイの指導者たちは、アナキンの「運命」ばかりに目を向け、あまりにも生身の彼の感情を理解しようとはしなかった。アナキンはエピソード2「クローンの攻撃」で、よき友、よき兄、よき師であるオビ=ワン・ケノービでさえ、「本当の自分を理解しようとしない」と叫んでいます(もともとヨーダたちジェダイ・マスターには、超潔癖集団にありがちな「自分たちはそうした。そうできない人たちのことが理解しづらい」という傾向が見受けられます)。

 シャアもまた前半生では、彼個人としての欲望に生きるよりも「ザビ家への復讐」を優先して叩きこまれ、短い後半生では「民衆のカリスマ」であることを求められます。

 しかしララァは、生身の男としての彼を受け入れ、その弱さをしてむしろ愛しいと感じてくれた。あの仮面の男が素直に「私はララァの指示に従おう」と言ったのはこの時期だけです。

 誰ひとり生身の彼を見ようとはしなかった。彼に生身があることさえ、気がつかれもしなかった。そんな人生においてララァとの邂逅は甘美な記憶であり、歳を重ねるにつれ「あのような出会いはもはや生涯で二度とない」という思いが募ったことでしょう。「逆襲のシャア」における彼の「母」という発言は「ありのままの彼を受け止めてくれる唯一の存在」という意味だったのだと思います。

 もっともその割にはララァに対して「しかし私は、お前の才能を愛しているだけだ」と冷たいことも言っていましたが、あれはララァへの、一種の甘えであったような気がします。甘えというと、反乱時の副官ナナイ・ミゲルの膝に甘えたりしていましたが、あちらはどうも代償を払って得る「プレイ」の匂いがしました。

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