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沈黙の巨人、「写研」が動いた “愛のあるユニークで豊かな書体”がわれらの手に届くまでの100年を考える(2/3 ページ)

» 2021年01月21日 09時45分 公開
[菊池美範ITmedia]

グラフィックデザイナーは写研の書体とともにあった

 1970年代〜80年代のグラフィックデザインや出版においては、高価な文字印字装置である写植機を駆使して、印刷用の「版下」と呼ばれる原稿をつくるプロフェッショナルの存在があった。

 デザイナーは写植機を使うことができないし、版下もデザイナーが手掛けるとは限らなかった。とくに広告や雑誌のデザインでは多くの媒体を抱えるデザイナーは版下まで手をかけられない場合が多く、デザイナーは「写植・版下指定紙」と呼ばれるガイドラインが印刷された薄い紙に、鉛筆やシャープペンシルで「12QMM-A-OKL行21H送り/両カナツメ箱組」と記したり、「Photo1/角版アタリケイマキ」などと赤や青のペンで書き込んで、写植印字と印刷用の台紙を作ったりしていただいた。この台紙や指定紙に文字や図版の色を指定して印刷会社に入稿というプロセスになる。

 このとき必須だったのは写研やモリサワの見本帳と、穴のあいた透明プラスチックの級数スケールと呼ばれるものだ。見本帳は写研の青本、モリサワの黄色本(写植文字割付帳)と呼ばれていた。級数スケールは使う大きさの書体が、レイアウトするスペースにどのくらい入るのかというガイドライン。この3つがデザイナーの机上にいつもあった。そんな制作環境が80年代末まで続いた後、AppleのMacintoshによるDTPとPostScriptの時代が始まる。

photo 写研の書体見本帳でサンプルテキストとして使われていた「愛のあるユニークで豊かな書体」を採用した「フォントかるた

DTPとPostScriptフォント

 1980年代後半から90年代にかけてのパーソナルコンピュータによるDTP草創期に、写研は積極的に参加しなかった。これに対してモリサワは1987年に米Adobeと共同開発・販売契約を結び、最初の日本語PostScriptフォントとして「リュウミンL-KL」と「中ゴシックBBB」をリリース。Appleの日本語PostScriptプリンタである「LaserWiter NTX-J」や独Linotypeのイメージセッターなどに搭載された。モリサワは電算写植時代も書体のデジタル化に積極的で、1980年にはLinotypeとの合弁事業も行っている。国際化を見据えた書体のデジタル化については写研よりも先んじていた。

 1990年代はデジタルフォントとして写研書体が渇望された時代でもあった。特にモリサワ書体を指定し慣れていないデザイナーにとっては「え?YSEG-L使えないの?」「リュウミンなんかで本文を組めるかよ」「MG-A-KLでなきゃキャプション指定したくない」などという声もあった。

 そんな心理的抵抗もあり、デザイナーの多くがPCでのデザインワークをためらっていた時代があった。マガジンハウスはSun MicrosystemsのSPARCstationをベースとしたデザイン・レイアウト専用システムを独自に構築した。技術・学術系ではソニーのUNIXワークステーションNEWSを使ったTeXによる組版を活用する事例も多く目にしている。デザインやプリプレスの道具として、1990年代前半までは日本語フォントの少なさと品質に疑問が抱かれていた時代でもある。

 写研は引き続き沈黙を続けた。太平洋戦争後の一時期にモリサワと共同事業を再開したものの、この時期に表立っての事業提携や共同開発は行われていない。

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