これはIBM PCの、というかドン・エストリッジ氏によるオープン戦略の副作用である。BIOSを含めた全ての仕様を完全に公開したからこそ、IBM PCとその互換機はあり得ないスピードでマーケットを席巻することになったわけだが、そうなると本家のIBM PC(とその後継機)が、単に高くてパッとしないだけの存在になるのもまた必然である。これはESD(Entry Systems Division)として捨て置けない問題であった。
加えてもう一つ、IBM PCの欠点は貧弱なバスであった。何しろXTバスとは要するに8088の外部バスそのものだし、ATバスは要するに80286のバス以上のものではなかった。そもそも8088にしても80286にしても、基板上の複数のチップを接続することは想定していても、カードエッジコネクター経由で複数のカードを装着することは想定していなかったし、バスの速度も基本的にはCPUの動作速度に準ずる構成だったから、CPUの動作速度が上がるとたちまち動かないケースが頻出した。
この2つの問題を一気に解決しようとした結果が、MCA(MicroChannel Architecture)である。これを開発したのは“Wild Duck”というニックネームを持つチェット・ヒース氏である。構造的には共有バス方式であるが、Address、Data、Arbitrationの3種類から構成され、8/16/32bitのデータ転送(メモリアクセス時24bitもサポート)、複数のDMAチャネルと割込み共有(Interrupt Sharing)が実装されたMaster/Slave方式で、最大で15までのSlaveデバイスをサポートした。
※Master/Slaveというのは最近の政治的に正しい言い方ではないのだが、何しろ1987年の規格だからご容赦いただきたい。
動作速度は20MHz版と40MHz版が用意され、PC向けには24bit Address/16bit Dataで20MHz駆動、Workstation向けは32bit Address/32bit Data、40MHz駆動のものが用意された。いろんな意味でATバスよりははるかにI/Oバスにふさわしい構造であった。これを搭載したのが1987年に登場したPS/2(Personal System/2)シリーズである。
問題は、
というところにある。
要するにこれまではBIOSの著作権でIBM PCという「資産」の保護を行っていたが、リバースエンジニアリングによりこの保護の意味がなくなった。そこでI/Oバスにロイヤリティーを課することで新たな保護にしよう、と考えたわけだ。
この決定はおそらくエストリッジ氏のものではない。エストリッジ氏は1984年にはIBMの副社長にまで昇進。IBMの全世界の製造部門の責任者にまで昇格しており、ESDも彼の掌握する一部になっていたが、そのエストリッジ氏は1985年8月の飛行機事故で逝去している。MCAの開発がその前から行われていたのは間違いないが、互換性はともかく(これを維持するとそこが足かせになる)仕様を非公開としたのはエストリッジ氏の考えではないだろう。
では誰の決定だったかというと、恐らくはエストリッジ氏の元上司であり、エストリッジ氏の死後にPS/2のマーケティングの責任者となったビル・ロウ氏と思われる。
もともとOpen Standardにするという方針はエストリッジ氏が決めたことであって、生え抜きのIBMマンであったロウ氏からすれば、MCAのように技術を囲いこむ方が普通だったことを考えれば、これは不思議ではない。
その結果は直ちに結果に現れた。1987年と1988年、IBMは合計で200万台弱のMCAマシンを出荷した。表3は1987年と1988年の数字とシェアをまとめたものだが、実はPS/2のうちローエンドになるModel 30とか、その後に追加されたModel 25などはプロセッサは80286のままで、バスもATバスを引き継いでいた。
表3のPS/2の出荷台数にはこれらのローエンドの台数も含まれているため、MCAマシンそのものは2年の合計で200万台をだいぶ割り込んでいるはずだ。まぁそれはともかくとして、問題はIBMの市場占有率が10%まで落ちたことである。これには2つの要因があった。
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