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PCから“IBM”が外れるまで 「IBM PC」からただの「PC」へ”PC”あるいは“Personal Computer”と呼ばれるもの、その変遷を辿る(3/3 ページ)

» 2021年01月21日 11時35分 公開
[大原雄介ITmedia]
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 一つは純粋にMCAが忌避されたことである。最終的にライセンスを取得したベンダーは、サーバ/ワークステーション向けなどの製品を手掛けていた一部のベンダー(国内だと三菱電機がライセンスを取得、同社のapricotの一部モデルに採用した程度)であり、拡張カードもこれに対応したものは少なかった。比較的早い時期にMicro Channelに対応した(というか、そもそもMicro Channelの開発に当たってどうも共同開発をしていたらしい)Chips and Technologiesの82C611/82C612というバスブリッジチップ(写真1)を使うことで既存のXTバス/ATバスをMCA対応にすることも可能だった。

photo 写真1:82C611/82C612のデータシートより抜粋。左側がMCA、右側がXT/ATバスになる。82C611はPIOのみ。82C612はPIO+DMAに対応していた

 この場合、MCAのバスライセンスは82C611/82C612に含まれているから、追加のライセンス取得は必要ないという話であったが、その82C611/82C612にはMCAのライセンス料というかロイヤリティーが上乗せされているわけで、結局無駄にコストが上がるだけであり、性能が上がるはずもなかった。

 もう一つの問題は、ATバスを引き続き利用するAT互換機が前年比の倍も出荷されたことだろう。IBMは頑張って100万台近いMCAマシンを出荷したが、IBM PC/XT/ATはIBM以外のメーカーに広くコンポーネントの生産委託を行うことで生産量を確保したが、PS/2シリーズの場合はこれの主要部分をIBMの内製に切り替えた。

 これにはいくつか理由がある。IBM PCシリーズの急速な発展に合わせ、IBMのさまざまな製造拠点も製造能力を急速に引き上げており、彼らに仕事を出す必要があったということがまず一つ。もう一つは、MCAが当時としてはかなりレベルが高い(=実装の難易度が高い)規格であり、そうそう外部に生産委託できなかったということがある。

 ただ市場は、まだそうした高性能な拡張バスを必要としていなかった、というのが正直なところだ。市場が必要としたのは高性能なプロセッサで、メモリはこのプロセッサの足を引っ張らない程度の速度があれば十分だった。拡張バスがボトルネックになる、なんて使い方は全体のうちのほんのわずかでしかなく、大半のユーザーのニーズは「今まで使っているATバスのままでいいから、高性能なプロセッサ(=386ベース。できれば386DX)と大容量(当時だから100MBくらい?)のHDDを積んでいて安いマシンが欲しい」であり、AT互換機メーカーはそうしたユーザーニーズに沿ったマシンを大量に出荷していた。

 余談ながらその386のシステムアーキテクトが、2月からIntelにCEOとして復帰するパット・ゲルシンガー氏であり、高卒で入ったゲルシンガー氏がどんどん出世していく大きなきっかけになった。

※その後、氏は在職中に大学と大学院の修士課程まで済ませており、最終学歴はスタンフォード大のEE&CS(Electrical Engineering and Computer Science)の修士となっている。

 ついでに言えば、386は最初のYield(歩留まり:1枚のウエハーからどれだけ正常なダイが取れるか)が0.5個/枚だった(当初の話だからIntelの1.5μm CMOSプロセスで、6inchのウエハーを採用しており、このウエハー2枚かろうじて良品が1個取れるというレベルだった)とか、にも関わらず一度生産が軌道に乗ると、ドル札を印刷するより儲かった(らしい)とか、ろくでもない話をいろいろ聞いた覚えがある。

 実際この当時のIntelのNet Income(当期純利益)を見ると、

  • 1984年:1億9800万ドル
  • 1985年:200万ドル
  • 1986年:-1億7300万ドル
  • 1987年:2億4800万ドル

というすさまじい変動ぶりを見せている。

 80386の最初の出荷は1985年10月で、この386の開発にかなりの金額を突っ込んだものの、製造の難しさや386のバグ(32bit乗算が正しく行えないとか、そもそも32bitプログラムがちゃんと動作しないとか、初期の386はさまざまな問題があった)の修正などで1986年は大赤字になるが、こうした問題を克服するとともに、AT互換機(やPS/2)が一斉に386に乗り換えた1987年には記録的な黒字に転換したわけで、実際にドル札を刷るより「本当に」儲かったかどうかはともかく、かなりの大儲けになったことは間違いない。

 話をIBMに戻すと、この失敗の責任を取る形でロウ氏は1988年にIBMを辞し、Xeroxに転職。1991年には航空機製造のGulfstream AerospaceなどいくつかのメーカーのCEO職を歴任することになる。

 IBMはその後、MCA路線は継続しながらもATバスを搭載した製品ラインを拡充して失地回復に努めるが、一度失ったリーダーシップを取り戻す(単にマーケットシェアでトップを取るという意味ではなく、IBM PCやIBM PC/ATのように、自分で規格を定め、それをPC業界が受け入れるという意味)ことには、今日に至るまで一度も成功していない。

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