ITmedia NEWS > 社会とIT >

「ピピン」とは何だったのか バンダイとAppleの黒歴史として失笑するだけでいいのか?(3/4 ページ)

» 2021年03月31日 12時25分 公開
[納富廉邦ITmedia]

ソフトウェアはどうだったのか

 ソフトウェアの面でも、ピピンは十分健闘していたと思う。メインとなるソフトのプロデューサーには、女児玩具を手掛けていた飛田尚美氏を抜てき。ゲーム機としてより、コミュニケーションツールとしての側面をより強調するものを推進した。

私も、パソコン通信を始めた時には、最初はのぞくだけ。手紙を出す相手もいないし、来るあてもない。時々ニフティの代表の方からいかがですかとかメールが来ると、異常に感動したり。それがだんだん能動的になっていきました。ピピンを買って通信を始めた方は最初はそんな感覚だと思うんです。だからいきなりメール交換とか、自分の情報発信とかをさせようとするのではなくて、そこに入りやすいサービスであるとか、遊びであるとかを提供してあげたいなと思っています。例えば、お絵かきソフトを買いましたと、それがドアとつながっている。つないでみると時々新しいスタンプが送られてくる。あ、なんか来るみたい。その部屋へ行くともっとたくさんスタンプがあるかもしれない、みたいなところで通信の面白さみたいなのを分かってもらいたいと思いますね

 当時の飛田氏の発言は、後のコミュニケーションアプリを予感しているようにさえ聞こえる。その発想は、彼女が手掛けていた、女児向けの電子手帳的なオモチャから来ている。彼女は最初から、コンピュータというより、対話性のあるオモチャやコミュニケーター的なものとして、ピピンをとらえていたのだ。この方向が正しかったことは、後のスマートフォンの普及が証明している。

 そしてピピンが発売される1996年には、インターネットがかなり普及してきて、時代はネットワークだといえるような状況になりつつあった、私たち、パソコン界隈にいる人間はそう思い込んでいた。しかし、ピピンのコミュニケーターとしての側面は当時は顧みられず、ゲーム機とパソコンの間に位置するマルチメディアプレイヤーとして世間に捉えられていて、既存の“次世代機”と呼ばれるゲーム専用CD-ROMマシンとの違いが分からない、といった評価がもっぱらだったのだ。

 それは、発表された「ピピンアットマーク」のデザインが次世代機に似ていること、バンダイというメーカーのイメージなどからも、無理もないことだったと思う。また、グラフィックスアクセラレーターを搭載しないのならセガサターンなどに勝ち目はないという意見が多く聞かれたのも、世間はピピンをゲーム機として捉えていたということだろう。バンダイは、「通信家電」という形を打ち出していたのだが、ネットワークに対する世間の認識はまだまだ浅かったのだ。

ゲーム機をどうしてもやりたい人には、ピピンを無理強いはできませんよね。全然違いますから。その人たちにとって、すごく面白いものになれるかというと、なれないと思うんですよ。すごい面白い、ハードを何百万台も売っちゃうようなソフトがピピン用のタイトルとして出てくれば別ですけれど、考え方とかは全然違いますからね。新しい会社になってしまったり、発売も近いというのもあるせいかもしれないんですけども、今年(1996年)になっていろんなところから取材が来て、一般のMac誌以外からの取材もすごく増えたんです。それがほとんどは一般情報誌の方で、反対にゲーム誌の方は全然取材が入ってこないんですよ。やっぱり違ったんだなと思いましたね」

 当時、Pippinプロジェクトでマーケティング・プロデューサーを担当していた古田真美氏は発売直前のインタビューで、既に、こうした意見を述べている。

photo MacUser日本版1996年1月号。この時期は「Pippinパワープレーヤー」という仮称だった

 こうして、当時の取材を振り返ってみると、鵜之澤氏も古田氏も、未来を見据えつつ現状に期待する、という姿勢だったことが分かる。実際、電話回線を使ってモデムでつなぐというこの時代のインターネットは、パソコンで使っていても決して快適とはいえなかった。ここには何か面白いものがあるに違いないと考えた一部の人間が夢中になって探索していた異世界のようなもので、リンクをクリックしたら煙草一本吸って、吸い終わったころにページが表示されるといったことも珍しくなかったのだ。ついでにいえば、パソコンだって遅かった。ゲーム機のようにサクサクとグラフィックスが動くことは無かったし、そのゲーム機にしてもCD-ROMの読み込み速度の遅さには参っていた。任天堂が光メディアに消極的だったのもうなずける状況だったのだ。

 つまり、パソコンでさえ全然未来に届いていなかった時代(まあ、今も届いているような気はしないけど)に、スマートフォンの登場さえ誰も予測せず、「プレイステーション2」にもまだ標準でネットワークが搭載されるそのずっと前に、ネットワークの未来とテレビの代わりになるプラットフォームの新しいスタイルを見据えたマシンを世に出してしまった、それがピピンであり、それこそが売れなかった原因だ。

 2007年にiPod touchが発売され、米国で携帯ゲーム機として人気を博した、その時点でさえインターネットとゲームは、それほどの親和性を持ち得ていなかった。結局、全てはスマートフォンの登場を待たなければならなかったし、そのスマートフォンでさえ、iPhoneの登場から1年以上、世間では黙殺状態だったことを私はまだしつこく覚えている。もっといえば、当時、最も安価なDVDプレイヤーとして人気が出たプレイステーション2の発売は2000年、つまりDVD登場以前というタイミングも悪かった。映像ソフトがVideoCD頼りだというのは、何とも厳しい。もちろん、映像のネット配信なんてフィクションの世界でもほとんど描かれていない時代だ。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.