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MacやWindowsには“元ネタ”があった 「パロアルト研」が残した「Alto」を振り返る(1/4 ページ)

» 2023年04月28日 14時30分 公開
[松尾公也ITmedia]

 2022年8月の終わりにいったんお別れのあいさつをしましたが、しばらくぶりに古巣で書かせてもらいます、そのお題というのが、Xerox PARC(Palo Alto Research Center)について。

米Xeroxの「パロアルト研究所」

 古い船をいま思い出せるのは新しい水夫じゃないだろう……ということでしょうか。まあ最近の人はXeroxっていっても「何て読むの?」となるのかもしれませんし、「ゼロックスしといて」といわれても、「リコピーしといて」といわれるのと同じくらい理解不能でしょう。

 コピー機の会社として知られていた米Xerox(ゼロックスと読みます)は、日本では富士写真フイルム(現在の富士フイルム)との合弁で富士ゼロックスという会社を設立し、オフィス向けコピー機を売っていました。その富士ゼロックスの名前は2021年に消え、社名は富士フイルムビジネスイノベーションと変更。これからは「ゼロックスを知らない子供たち」の時代となるのでしょうね。ちなみにリコピーというのは、OA(オフィスオートメーションと呼ぶ、まあDXみたいなもの)の主役がコピー機だった頃に、大きなシェアを持っていたリコーのコピー機です。

 さて、Xerox PARCの話に戻りましょう。そんなXeroxですが、コピー機だけでは先行きがないというのを分かっていたため、メインビジネスであるコピー機関連の研究所とは別に、より自由度の高い研究所を設立します。それがPARC。

 PARCが置かれたカリフォルニア州パロアルトは、Intelほか多くの半導体企業を生んだFairchild Semiconductorやシリコンバレーにコンピュータ産業を起こしたHewlett-Packard、そしてスタンフォード大学と、同大学のStanford Research Institute(SRI)など豊富な人材が設立の時期にすでに集まっていました。

 コンピュータの発展には「地域」というのが時に大きな影響を持ちます。ニューヨーク、マサチューセッツ、ユタ、そしてベイエリア(シリコンバレー)。スタンフォード大学を中心とした豊富な人材が、自由に研究でき、資金が潤沢な環境を求めてPARCに集まってきました。

 その一人がアラン・ケイ。彼の構想の一つである「ダイナブック」(Dynabook)は、PARCで現代のコンピュータを定義するマシン「Alto」として結実し、Mac、Windowsなど数多くの子供たちを生んだ、根源的なものです。

 青空文庫の創設者としても知られているジャーナリストの富田倫生さんは、著書「青空のリスタート」でダイナブックについて書いています。これは、1989年に東芝がノートPC「ダイナブック」を出した際に、アラン・ケイがOKしたことについて本人はどう思うかを富田さんがアラン・ケイに質問したことへの回答です。ちょっと長いけど、ダイナブックの説明として適切だと思うので、その部分を引用させていただきます(全文はこちら)。

先ず彼が最初に強調したのは、ダイナブックのアイデアは「小型のラップトップというスタイルと不可分に生まれたのではない」という点だった。

1968年頃、ゼロックスのパロアルト研究所(この世界の『虎の穴』のようなものだ)に入る前、1968年頃にダイナブックについて考え始めたころ、アラン・ケイはこれを「サービスやコミュニケーションのアイデアとして想定した」という。

つまり人間の認識の方法にそった使いやすいインタフェースを通して文字やグラフィックス、ハイファイの音声がリアルタイムで取り扱え、どこにでも持って行けて常に無線でネットワークに接続されており、自分にあった環境をたやすく作っていくためのプログラミング環境が組み込まれている。まずはこうした欲しいサービスのイメージが先にあって、これをどういった形で実現するかは後にきた。

そしてこの目的を実現する手段に関しては、当初、3つを思い描いたという。

第1は、ノート型のもの。グーテンベルクがはじめて活字を用いて作った本は大変に大きかったけれど、数年後にベネチアで出たものは「本というものは持ち運べなければいけない」というアイデアを打ち出した。今に連なる本のサイズはこのベネチア人のアイデアに従っているわけで、この本の大きさまで行き付ければ、そのマシンはどこででも使えるという提供すべきサービスの条件を1つ、クリアできるだろう。

第2は、コンピュータグラフィックスの創始者であるアイヴァン・サザランドが当時ユタ大学で実験を行なっていた、眼鏡型のディスプレイの利用。

そして第3が、マサチューセッツ工科大学メディアラボ所長となったニコラス・ネグロポンテが考えたという、腕輪型のコンピュータだった。

そう指摘してからアラン・ケイは「例えばHyperCardのようなシステムを1.5ポンド(ということは700gくらいの勘定か)のコンピュータにおさめ、デジタル携帯電話でネットワークにつなげば当時私が考えていたのと同じようなものができるだろう」と語ってから、最後にぽつんと「MS-DOSのことは考えてなかった」と加えてにやりと笑ったわけなのである。

 今思えばこれはiPadをはじめとするタブレットコンピュータのことでしょう。モバイルネットワークでインターネット接続できる730g。HyperCardはないけど、Webブラウズはできる。彼はそんなデバイスを1989年にほぼ正確に予見していたということになります。

 眼鏡型ディスプレイはまさに今日、実用化されようとしていますし、腕輪型コンピュータはApple Watchのように見えませんか?

photo Dynabookの3つの姿を説明するアラン・ケイ

 そういえば、アラン・ケイは2007年、初代iPhoneが出たとき、友人でもあるスティーブ・ジョブズにこう言ったといわれています。「画面を5×8インチにしなよ。そうすれば世界を支配できる」。これは、前述のことが念頭にあったからなんでしょうね。iPadが出た当時はそれ自体に開発環境がなかったため完全なダイナブックではありませんでしたが、今ではSwift Playgroundでアプリケーションを書けますし。

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