現代は、論文に限らずさまざまな文章をPCなどの電子デバイス上で書くことが普通ですが、それが一般的でなかった時代は、手書きやタイプライターなど、紙に印字する形で文章を書いていました。このような物理的な記入方法は、一度書いたものを簡単には消せないという不便さがあります。
1975年、物理学者のジャック・H・ヘザリングトンは「体心立方格子構造のヘリウム3における2、3、4個の原子交換による影響について」(Two-, Three-, and Four-Atom Exchange Effects in bcc 3He)という論文を書きました。これは低温下で固体状態のヘリウムについて、磁気的にどのような性質を示すのかについて考察した論文でした。
しかし、この論文はヘザリングトン1人が書いたものなのに、英語の複数形で書いてしまうというミスを犯してしまいました。
複数形を単数形に直すには、原稿をイチから書き直すしかなく、明らかに大変です。かといってそのまま提出すれば、学術誌への掲載を却下されるかもしれません。苦心の末ヘザリングトンは「F・D・C・ウィラード」なる者を共筆者とする形で、複数形のまま論文を科学雑誌「Physical Review Letters誌」に提出、無事受理されました。
それから3年後の1978年、低温物理学の国際会議の場でこの原稿が配られた際、F・D・C・ウィラードの署名として猫の足跡が押される形で、この者の正体が明らかにされました。F・D・C・ウィラードの正体は、ヘザリングトンの飼い猫であるオスのシャムネコ「チェスター」。名前は当時使われていたイエネコの学名「Felis domesticus」 (現在はFelis catusが一般的) 、本名のチェスターの頭文字を並べたものでした。
ウィラードは“著者”であるチェスターではなく、チェスターの父親の名前です。本人ではなく父親の名前としたのは、勘のいい同僚が正体に気づいてしまうのを防ぐためでした。
幸い、著者の正体が明らかになっても、この論文は有効なまま、もうすぐ50周年の節目を迎えます。また1980年にはF・D・C・ウィラード単独で「固体ヘリウム3、核反強磁性体」(L’helium 3 solide. Un antiferromagnetique nucleaire)という論文が科学雑誌「La Recherche誌」に投稿されています。
こちらは1975年の論文の続きで、やはり固体ヘリウムの磁性について説明しています。ちなみにF・D・C・ウィラードことチェスターは、この2年後の1982年に死去したそうです。
参考文献
J. H. Hetherington & F. D. C. Willard. “Two-, Three-, and Four-Atom Exchange Effects in bcc 3He”. Physical Review Letters, 1975; 35(21)1442. DOI: 10.1103/PhysRevLett.35.1442
F. D. C. Willard. "L’helium 3 solide. Un antiferromagnetique nucleaire". La Recherche, 1980; 114.
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