完全な理系少年だった少年時代:挑戦者たちの履歴書(2)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回からは、 ウルシステムズ株式会社の代表取締役社長を務める漆原茂氏を取り上げている。
漆原氏は1965年、横浜に生まれた。
幼いころから驚異的な才能を発揮して、周囲の大人を驚かせるような天才少年……では決してなく、本当にどこにでもいる普通の子どもだったと本人は語る。「本当に、ごくごく普通の子どもだったんです」と、同氏は“普通”という部分を強調する。しかし、本当にそうだったのだろうか? 例えば、学校の成績はどうだったのか?
「うーん、まあ平均より多少良かったとは思いますが……」
ここで、同席していた広報担当者からツッコミが入る。
「かなり優秀だったんじゃないですか?」
漆原氏は少し困った顔をしながら「いやー、そんなことないですよ」と笑う。本人は謙遜するが、かなり成績優秀な子どもだったのだと筆者は見た。しかし、得意な科目と苦手な科目ははっきり分かれていたという。
「例えば、理科や算数などの理系科目は得意で、逆に国語や社会など文系の科目は苦手でした。でも、勉強自体はあまり苦ではありませんでした。特に、理系科目の勉強は得意というか、“面白い”と思っていました」
ある現象について理解できると、さらにその背後にある仕組みが知りたくなる。それが理解できると、さらにその先が知りたくなる。
このように、物事の仕組みを探求していくプロセスそのものが、謎解きのようで面白かったのだという。「探究心旺盛なところは、大人になったいまでも変わっていません。生まれついての性格なんだと思います」
当時は学校の勉強だけでなく、子ども向け科学雑誌などにも興味を示していた。また、機械いじりにも早くから興味を示した。同氏の父親がラジオなどの機械をいじるのが趣味だった影響もあってか、メカトロニクスに対する興味は早くから芽生えていたらしい。早くも小学生のころから、後にコンピュータの世界にどっぷりはまることになる素養の片鱗を見せていたようだ。
「わたしが育った家庭は、特に“理系家族”なわけでもなかったんです。機械いじりが好きだったのも、本当に父の影響だったのかどうか、実は定かではありません。でも、確かに機械に対する興味は早くから持っていましたね」
また、小学生のころの同氏は体が小さく、朝礼の列ではいつも一番前か2番目に並んでいるような子どもだった。そのため運動があまり得意ではなく、家の中で遊ぶことが多かった。そのことも機械への興味を誘った一因だったのかもしれない。
やがて小学校高学年になると、漆原少年は私立中学校に入学するための受験勉強を始める。いまでいうところの「お受験」だが、当時はまだいまほど受験熱が高くなかった時代だ。なぜ私立の中学校に進学しようと思ったのか?
「当時は、ちょうど校内暴力の嵐が吹き荒れていた時代で、地元の公立中学校が随分荒れていたんです。校舎内にバイクで乗り入れる生徒がいたり、窓ガラスが割れていたり、暴走族の集会みたいなのがあったり……。そんなうわさを耳にしていたので、公立に行くか私立に行くか、親に選択しろと言われたとき、迷わず私立に行く方を選びました」
こうして私立中学校を受験することになったが、勉強が苦にならなかった漆原少年のこと、さして苦労もせずに合格を勝ち取ったのかと思いきや、実はそうでもなかったらしい。中学受験用の学習塾に通い、かなり集中的に勉強したという。「いま思い返しても、人生の中であのころほど勉強に集中した時期はなかった」と同氏は振り返る。
そのかいあってか、鎌倉にある中高一貫の名門進学校への入学を果たすことになる。ときに1970年代、ちょうどPCの黎明期だったころだ。
そのころ発売された初期のPCは「8ビットの組み立てキット」が主流で、「ワンボードマイコン」と呼ばれていた。見た目も基盤むき出しのいかにも「機械然」としたもので、電子工作が趣味の一部愛好家向けのマニアックな商品という位置付けだった。
しかし、まだ中学生とはいえ、根っからの理系人間で機械好きの漆原少年が、これに飛びつかないわけはなかった。
この続きは、5月17日(月)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
- 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 苦心したコミュニティとの関係構築
- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
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