編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。今回は、瀧田氏の大学時代を取り上げる。初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
大学4年生となった瀧田氏。周囲の同級生たちが就職活動に奔走する中、それまでと変わらぬ学生生活を悠然と続けていた。研究室に定期的に顔を出し、バスケットボール部の練習やスイミングスクールのバイトに精を出す。通常、大学のクラブ活動は3年生で事実上終了し、4年生になると引退試合をやって就職活動に専念するというのが、当時の学生の典型的なパターンだったにも関わらずだ。
当時はまだ「就活」という言葉もなく、今のように3年生の夏から早くも就職活動戦線がスタートするようなせわしい時代ではなかった。とはいえ、当時であっても4年生の春から夏にかけて、多くの学生は就職先の内定を得ているのが普通だった。
「バスケ部の後輩から『先輩、そろそろ就職活動しなくていいんですか?』と心配される始末で。研究室の教授も随分心配してくださって、企業を紹介してくれたりしました」
しかし、当時瀧田氏が大学の研究室で扱っていたのはバイオ化学。当然、教授の紹介先もバイオ系の企業だったが、瀧田氏いわく「ちょっと違うかな……」。
「大学で学んだ化学は、それはそれで非常に面白かったんですけど、それを天職にするつもりはなかったんです。私の性格上、ずっと試験管を振っているような人生は、さすがにちょっと違うかなと」
しかし、そうこうしているうちに4年生の夏が過ぎ、秋が過ぎ、さすがにこの時点で就職先が決まっていないのまずい……。そんなある日、新聞の求人欄を見ていたところ、ちょっと目を引く広告を見つけた。
「キャッチコピーの正確な内容は覚えてないんですけど、日電東芝情報システムという会社の新卒採用の募集広告で、『女性技術者として初採用』とか『汎用機のSE』とか書いてあったと思います。この『女性として初』というキャッチフレーズにピンと来たんです。当時、就きたい職業の明確なイメージはなかったんですけど、『普通とは違う生き方がしたい!』という思いは強く持っていました。なので、このキャッチフレーズに惹かれるところがあったんですね」
ちなみに日電東芝情報システムという会社は、社名からも分かる通り、NECと東芝の出資により設立された合弁会社だ。汎用機の販売とサポートを主な業務とし、後に「NEC東芝情報システム」と社名を変更した後、2004年には東芝グループの資本撤退に伴い、完全にNEC系列の会社となって、社名も「NECトータルインテグレーションサービス株式会社」と変更された。さらに、2009年にはNECグループ内のソリューション事業再編に伴い、同社の事業はすべてNECとNECネクサソリューションズに移管されている。
話を戻そう。瀧田氏は早速、求人広告にあった電話番号に電話してみた。すると先方の担当者は「今から来れますか?」。
「はい、では伺います」と三田の日電東芝情報システムのオフィスを軽い気持ちで訪問すると、「本日、面接のお時間ありますか?」「ああ、はい……」。
面接を終えると今度は、「本日、あと1時間ほどお時間ありますか」「ああ、はい……」「では、採用試験を受けてもらえますか?」。
その場で即座に採用試験を受け、そして何とその場で採用決定!
「それまでPCすら触ったことがなくて、コンピュータとはまったく無縁の生活を送ってきていたんです。『SEって何?』『プログラムって何?』『汎用機って何?』という状態でしたね。ただ『女性技術者初!』というキャッチコピーに惹かれただけだったので、応募の動機としては不純だったのかもしれませんね!」
とはいえ、大学卒業を目前に控えた2月、めでたく瀧田氏は日電東芝情報システムにSEとして採用が決まる。
「今、大学で非常勤講師として学生たちに教えていますけど、今の子たちは大変ですよね。3年生の夏には早くも就職活動を始めなくてはいけないんですから。ですから、学生たちには、『そんなに早く自分の将来を決めちゃっていいの? 私なんか、4年生の冬にようやく決まったぐらいなんだから、焦ることはないわよ』とよく言ってるんです!」
この続きは、11月25日(金)に掲載予定です。お楽しみに!
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
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