研究職のオファーを蹴り、開発職へ:挑戦者たちの履歴書(9)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、漆原茂氏の大学卒業までを取り上げた。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
東大工学部に進学したものの、大学院には進まず、メーカーに就職して最先端のコンピュータ開発に携わる道を選んだ漆原氏。大学院進学の準備に追われる同級生たちを尻目に、早速就職活動を始める。就職先を選ぶに当たっては、どのようなことを基準にしたのだろうか?
「特に『この企業でなければ』というのはありませんでした。本当のことを言うと、就職活動を始めた当初は、『どこでもいいかな』という程度に思っていました。こんなことを言うと、いいかげんなやつだと思われるかもしれませんが」
冗談交じりに、同氏は笑いながらそう説明する。しかし、実際にはさまざまな選択基準があったようだ。特に、「いろんなことをやらせてもらえそうなところ」というのは重要なポイントだった。
東大といえば筆者が言うまでもなく、日本で最も優秀な学生たちが集まっている大学だ。就職活動シーズンともなれば、優秀な学生を採用したい多くの企業が、学内で会社説明会を開催する。漆原氏も、こうした場を活用してさまざまなメーカー企業の担当者の話を聞いて回った。その結果、最終的に就職先に選択したのが沖電気工業株式会社(以下、沖電気)だった。同社に決めたポイントは、どこにあったのか?
「沖電気は当時、ハードウェアもOSも自社で開発していました。まさに、わたしがやりたかった分野にマッチしていたのです。そして、有名メーカーでありながらも、規模が大きすぎなかった点もポイントでした。その方が、割と何でも自由にやらせてもらえそうな気がしたのです。実際、大学OBの方に会わせて頂いたり、職場を見学させて頂いた際にも、『ここは肌に合っている』という印象を持ちました」
実は沖電気からは当初、研究職での採用オファーがあった。
大抵の理系学生であれば、喜んで飛び付きそうなオファーだが、研究よりも実際の「もの作り」がしたくて就職の道を選んだ漆原氏のこと。研究職ではなく、開発現場での仕事を志望した。
「でも、本当は配属先の希望なんて、就職のときに言ってもしょうがないんですけどね」と同氏は当時のことを振り返るが、理論の研究よりも、実際の「もの」にこだわる同氏の志向がよく表れているエピソードだといえよう。
また、「最先端」へのこだわりも、沖電気であれば満たせると思った。
かねて「コンピュータの最先端といえばスーパーコンピュータ。いつかは自分の手でスーパーコンピュータを作りたい」と考えていた同氏。「沖電気は第5世代コンピュータやTRONなどの研究もしているし、そういえば自社内でメインフレームも開発していたような気がする」。こうして、スーパーコンピュータの開発を夢見て沖電気への就職を決めたのだが……。
「会社に入って初めて知ったのですが、メインフレームの開発なんて、もうとっくの昔に止めちゃってたんです。ハハハ!」
沖電気に入社した同氏は、念願であったメーカーのコンピュータ開発現場の第一線で活躍の場を得ることになる。入社当初は、具体的にどのような仕事に携わっていたのか?
「配属されたのは、いわゆる“ミニコン”を扱っている部署でした。ハードウェアは自社製で、OSも当時は自社内で開発していました。しかし、わたしが入社してから2年ほどが経ったころから、UNIXなどのオープン系OSに切り替わっていったと記憶しています。ですから、わたしは沖電気でOSを自社開発していた最後の世代に当たると思います」
ときは1980年代後半。「ダウンサイジング」の掛け声とともに、大型コンピュータがUNIXワークステーションに次々とリプレイスされていった時代だった。沖電気をはじめとする各国内メーカーも、積極的にUNIXワークステーションの開発・販売に乗り出していく。
この続きは、6月2日(水)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
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- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
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