設立3年で異例のスピード上場を実現:挑戦者たちの履歴書(43)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、青野氏がサイボウズが東京に進出するまでを取り上げた。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
1997年、青野氏ら3人が愛媛の地で立ち上げたサイボウズ株式会社(以下、サイボウズ)は、瞬く間に売り上げを伸ばし、注目の新興企業として業界で広く知られるようになった。ビジネスの拡大に伴い、愛媛県の松山市から大阪へとオフィスを移転した同社だったが、それでも人材の確保がビジネスの拡大に追い付かなくなってきた。「大阪でこれ以上人材を集めるのは難しい」。そう判断した青野氏らは、本社を東京に移転する決意を固める。
まず2000年7月、大阪のオフィスを残したまま、先行して東京オフィスを開設した。さらにその翌月、8月23日にはマザーズへの上場を果たしている。会社設立からちょうど3年でのスピード上場である。2000年といえば、いわゆる「ネットバブル」が最高潮に達し、インターネットビジネスでのし上がったベンチャー企業が次々と新興市場に上場を果たしたころだ。そして同時に、そのネットバブルが弾けた年でもあった。
サイボウズもそうした新興ネット企業の1社と見られていた節もあるが、青野氏いわく「サイボウズはドン臭かった」という。
「当時はマザーズが開設されて間もないころで、サイバーエージェントさんやオン・ザ・エッジ(現ライブドア)さんが上場して話題になっていたのですが、そのバブルが崩壊した直後にサイボウズは上場しました。非常にタイミングが悪くて、いかにもドン臭いサイボウズらしいですね。『サイボウズ、相変わらずドン臭いねー』みたいな!」
こう言って卑下する青野氏だが、上場当時、サイボウズは売り上げ16億円を約40人の従業員で上げていたという。会社設立後3年間の成果としては、当時脚光を浴びていたほかの新興企業に決して引けを取っていなかっただろう。
しかし前述の通り、人材不足は深刻だった。優秀な人材をより多く集めるべく、本社を東京に移転し、その後の2年間余りで約40人いた従業員を120〜130人にまで増やした。人手不足のために社内が混乱を極めていた様子は前回紹介した通りだが、ここに来てようやく業務も落ち着いて回り始めた。
旗艦製品「サイボウズ Office」は順調にバージョンアップを重ね、2000年10月にはバージョン4が発売され、好評を博していた。創業後の混乱期を脱し、ようやく「普通の会社」として落ち着いてビジネスを回していけるようになった……。のかと思いきや、青野氏らはここで思い切ったチャレンジに打って出る。何と、米国進出である! 一体何がきっかけで、いきなり米国に進出しようと思い立ったのだろうか?
「きっかけというのは特にありませんでした。もう純粋に、ソフトウェアをやる者として、『自分たちが作ったものを世界中の人たちに使ってもらいたい!』という、ただそれだけでした」
上場によって得た資金を元手に、サンフランシスコに現地法人「Cybozu Corporation」を設立。「Webを使った“簡単”で“お手軽”なグループウェアという製品コンセプトは、米国でも絶対にニーズがあるはずだ!」。満を持して、サイボウズ Officeとほぼ同じ機能を持つ英語版の製品「サイボウズ Share360」を米国市場でリリースしたが……。青野氏いわく、「勘違いでした」。
IBMやマイクロソフトといった巨大IT企業のお膝元である米国市場の壁は、当初想定していたよりはるかに高かった。米国でのビジネスは苦戦を強いられ、結局2005年には現地法人を清算し、米国市場から撤退している。
しかし米国以外の市場、特にアジアや欧州の日系企業ではサイボウズの英語版製品は好評を博した。この教訓を生かし、現在の同社の海外戦略はアジアをメインターゲットに進められている。そして後述するが、世界最大の市場である米国へリベンジするための布石も、着々と打っているようだ。「世界中の人々に自分たちの製品を使ってもらう」。この目標を達成するには、米国市場は外すことはできない。青野氏率いるサイボウズが米国でもうひと暴れする日は、意外と近いのかもしれない。
この続きは、8月25日(水)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
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