「小学6年生」の表紙にスカウトされる:挑戦者たちの履歴書(76)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、ジュニパーネットワークス社長の細井洋一氏の少年時代を取り上げた。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
前回紹介した通り、小学2年生から中学2年生までの8年間、名門「フレーベル少年合唱団」に所属していた細井少年。そのことが縁で、当時ちょっと変わった経験をしたという。
「小学6年から中学1年までの2年間、小学館の子ども向け雑誌『小学6年生』の表紙に出てたんですよ」
ちょうど合唱団の練習場所の近くに小学館の本社があったため、小学館から表紙モデルのスカウトがやってきたのだという。そこで白羽の矢が立ったのが、当時6年生だった細井少年だったのだ。
「今でも僕が写っている表紙はとってあるんですよ。お袋が近所に自慢したくて、大事にとってあってね」
そう言って細井氏は、クリアファイルから当時の『小学6年生』の表紙を大事そうに取り出して見せてくれた。こう言っては失礼だが、とても親の手を焼かせていたわんぱく坊主には見えない。「紅顔の美少年」といったところだろうか? ちなみに、細井氏と一緒に写っている少女は、寺尾真知子氏。後に宝塚に入団して、トップスター「北原千琴」として活躍した人物だ。
「撮影のときに小学館の人にインタビューを受けて、『将来何になりたいのですか?』と聞かれて『サラリーマン!』と答えたのを覚えてますね! 親父を見てて、『何だか、サラリーマンって気楽そうでいいな』と思ってたんですね。あと、『行ってみたい国は?』と聞かれたときには、真っ先に『フランス!』と答えたのも覚えてます。当時はスキーに夢中になっていて、スキー雑誌で読む本場の情報はフランスの話が多かったんでね」
細井氏は小学校4年生のとき、スキーとの出会いを果たしている。ここでわざわざ「出会い」と記したのは、同氏にとってスキーは単なる趣味の範疇をはるかに超えて、その後の人生を大きく左右する大きなファクターになったからだ。このことは、後の回を読み進めるにつれ徐々に明らかになっていく。
「親父の当時の知り合いにスキー好きな人がいて、『そんなに暴れん坊な子だったら、一度スキーにでも連れていこうか?』と言ってくれてね。僕は『そんな寒いところに行けるけー!』と反抗したんだけど、実際やってみたら面白くって、もう病み付きになっちゃってね!」
当時は、都内に住んでいる小学生や中学生でスキーをやっている子どもなどほとんどいなかった時代だが、すっかりスキーの虜になってしまった細井少年。スキーシーズンになると、両親や近所のスキー好きのお兄さんに連れられてスキー場に通ったという。
ちなみに、中学校は地元江東区の学校ではなく、千代田区にある進学校「九段中学校」に越境入学した。これも、子どもの将来を心配した母親の気遣いだった。
「お袋が、『この子は地元の中学に行ったら、どうせ遊んじゃうだろうから』と心配して、わざわざ九段中学に越境入学させたんです。でも、どの学校に行っても結局遊んじゃうんですけどね!」
九段中学校の母体となった九段高校は、都内では名高い進学校だ。当時設立されたばかりの九段中学校も、名門高校への進学を目指す生徒がさまざまな地域から集まっていたという。それまで、地元の深川で悪ガキとして鳴らした細井少年にとって、そうした同級生との出会いは新鮮だったという。
「日比谷高校や九段高校、慶応高校への進学を目指すお坊ちゃん、お嬢さまが、いろんな地域から集まってきてましたね。それまで深川の地元の友達しか知らなかったものですから、とても新鮮でしたね。お袋も僕に同級生と同じように、良い高校に進学してくれるよう願っていたんですけど、当の本人にはまったくその自覚がなくてね!」
中学の3年間、ほとんどといってよいほど勉強はしなかったという。部活は陸上部に所属し、短距離選手としてそこそこの成績を残したものの、もっぱらスキーに夢中になっていた。
そんな中学時代を過ごしていた細井少年だが、3年生になり、周囲の優等生たちが高校進学に向けてラストスパートをかけ始めたころ、1つの転機が訪れる。きっかけになったのは、当時若者たちの間で絶大な人気を誇った加山雄三の映画、『若大将シリーズ』だった。
この続きは、1月24日(月)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
- 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 苦心したコミュニティとの関係構築
- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
- 聴力を失っても頑張り続けたネスケサポート
- 出産3時間前まで開発を続ける
- 結婚式の翌日には米国にとんぼがえり!
- “MOJIBAKE”を一般語化させる
- ネスケ本社のいい加減なテスト方法に驚愕
- 肌で感じた日米の“エンジニアへの待遇格差”
- 社会貢献が開いたブラウザ活動への道
- 出戻り先の東芝で出会った運命の相手
- 通勤前後に水泳インストラクターをこなす超人
- UNIXに一目ぼれし、ゼロックスへ転職
- 先輩にうまく乗せられて覚えたFORTRAN
- 不純な動機で選んだ就職先
- バスケにバイトにバンド、堪能した大学時代
- 宇宙工学を学ぶはずがなぜかバイオ方面へ
- 雪深い地の伝統校に通った高校時代
- とことんやり、スパッと見切りをつける
- とにかく頑固でわが道を行く少女時代
- “王者IE”に挑み続けた反骨の母
- 非連続的な成長で1000億円企業に
- 奥さまは社員第一号
- 一番やりたいのは“無限にスケールできるPaaS”
- 絶対的な競争力の源泉は“ライセンスコスト”
- 大口解約でもびくともしない経営体質へ
- データセンターがダウンした年末
- インターネット企業ならではの乱高下
- 会社を救うため、数千万円の多重債務者に
- 手を広げ過ぎて、上場後すぐに地獄へ
- “郷に入れば、郷に従わず”に失敗
- 弱冠27歳で東証マザーズ上場を実現
- 従業員の給料をATMで自ら振り込む修羅場
- 一時の気の迷いで“受託の麻薬”に手を出す
- “自転車操業”で、創業期を何とかしのぐ
- マニアにターゲットを絞った戦略が功を奏す
- “さくら”の由来に拍子抜け
- アキバで感動し、18歳でさくらを立ち上げ
- “三股”で多忙を極めた5年間
- 入学早々“校歌しばき”の洗礼を受ける
- 関西と関東の文化の違いにがくぜんとする
- 中学で同じ趣味のマニアに出会う
- 電気工作に明け暮れ、将来の夢は“エンジニア”
- 乗り鉄で“一筆乗車”にハマった幼少時代
- 日本のインターネット黎明期を築いた未成年
- これからの若者は絶対海外へ出るべき!
- 日本企業には“変わる勇気”が必要
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.