フレーベル少年合唱団がキューピットに:挑戦者たちの履歴書(79)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、ジュニパーネットワークス社長の細井洋一氏の大学入学までを取り上げた。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
1973年4月、憧れの加山雄三と同じ慶応大学への入学を果たした細井氏。もともと、スキーをやるために選んだ慶応大学への進学だったため、入学しても学業にはまったく目もくれず、ひたすらスキー一筋の学生生活だったという。
まず入学早々、体育会のスキー部に入部した。ここで細井氏は、生まれて初めて国内トップスキーヤーたちの技術に直に触れることになる。当時の慶応大学スキー部は、オリンピック代表選手を輩出するほどのレベルの高さを誇っていた。細井氏の1学年上にも、ワールドカップ代表選手の村越安雄氏がいたという。それ以外にも、北海道や長野といったスキーの本場から、強豪選手たちが集まっていた。
「彼らはもう、幼少のころから下駄で滑っていたような人たちで、僕みたいな都会っ子が休みの日にちょっと滑っているようなのとは、レベルがまるで違うんです。もう、加山雄三なんてレベルじゃない」
結局、体育会スキー部は1年間で挫折することになる。「このとき、『上には上がいる』ということを、つくづく思い知らされましたね」。細井氏にとって、このときの経験は、人生初の大きな挫折として強く印象に残っているという。
しかしそれでも、スキーへの思いは断ち難かった。体育会スキー部を退部した細井氏は2年生のとき、準体育会のスキー同好会「ラ・シャール スキークラブ」に入部する。体育会並みの「国内トップレベル」とまではいかないが、それでもスキーにはまじめに取り組み、かつ学業もきちんとやる。同好会とはいえ、いわゆる「ナンパなスキーサークル」とは一線を画していた。この同好会は、実に居心地が良かったと細井氏は言う。
「僕は2年生からこの同好会に入ったんですけど、メンバーが実に温かく迎え入れてくれて。まるで1年生のときからそこにいたかのように、のびのびと振舞うことができました」
ところで、「慶応大学」に「スキー」と来れば、筆者のような年代の人間はどうしても短絡的に「恋愛」を続けてイメージしてしまうのだが、当時の細井氏はどうだったのだろうか?
「いわゆる『浮いた話』は、ほとんどなかったですねえ! 当時の僕は、『俺はスキー一筋なんだ!』と妙に硬派ぶってて、クリスマスの日までスキー場で合宿を張って練習してましたからね。女性からしてみれば、クリスマスまでスキーの練習で放っておかれては、寂しいですもんね」
実際に2年生や3年生のころは、年間150日をスキー場で過ごしていたという。
体育会で一度は挫折したものの、スキーに懸ける情熱はいささかも衰えてはいなかったようだ。大会にも積極的に参加し、出るからには毎回優勝を狙った。さまざまな大会に出場したが、その中でも「全塾大会」は年間を通じてハイライトともいうべき大会だった。これは、慶応大学の全ての競技スキーサークルが一堂に会して行われる競技大会で、現在も毎年開催されている。細井氏憧れの加山雄三も学生時代、この全塾大会で優勝を飾っている。
ちなみに、細井氏が大学生当時の加山雄三はといえば、スキー場でラッセル車に轢かれて大けがを負った上に、経営していたホテルが倒産するなど、過去の栄光から一転して不遇の時代を迎えていた。そんな折、細井氏はかつて同じ「フレーベル少年合唱団」に所属していた慶大生の友人から声を掛けられる。「加山雄三のコンサートを企画しているんだが、人手が足りないので手伝ってくれないか?」。
何と、憧れの加山雄三と会えるチャンスが、思いがけず巡ってきたのだ! 首尾よく楽屋担当の役目をゲットした細井氏はコンサート当日、ついに長年憧れ続けた加山雄三との対面を果たす。
「いろいろお話しできましたよ。『ほら、これがキャタピラの痕だよ』とけがの傷まで見せてくれたりしてね」
ここで細井氏は大胆にも、初対面の加山氏に対してあるお願いをしている。「今年、全塾大会をやるんですけど、メダルを用意するためにお金がいるんです。加山さん、スポンサーになってくれませんか?」。一介の学生が国民的大スターに対して、何とも大胆なお願いだが、加山氏もこれを快諾する。「よし、分かった!」。
こうして、その年に開催された全塾大会のメダルには、「加山雄三杯」という冠名が刻まれることになった。そして大会当日、細井氏は回転種目で見事優勝を果たし、加山氏の名前が刻まれた金メダルを獲得する。
憧れの加山雄三と対面できただけでなく、加山氏の名前が冠されたメダルを獲得するまででき、細井氏にとっては実に思い出深い出来事になったに違いない。しかし、また別の意味で、加山氏との対面は細井氏にとって感慨深かったという。
「外から見ているとバラ色の人生を歩んでいるように見える大スターでも、実際は苦労してるんだなあと。いろんな意味で『すごいな』と思いましたね……」
くしくも、細井氏が加山氏との対面を果たしたコンサート以来、加山氏は徐々にコンサートやテレビでの仕事が増え、ほどなくして芸能界の表舞台に再び大スターとして帰ってくることになる。
この続きは、1月31日(月)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
- 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 苦心したコミュニティとの関係構築
- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
- 聴力を失っても頑張り続けたネスケサポート
- 出産3時間前まで開発を続ける
- 結婚式の翌日には米国にとんぼがえり!
- “MOJIBAKE”を一般語化させる
- ネスケ本社のいい加減なテスト方法に驚愕
- 肌で感じた日米の“エンジニアへの待遇格差”
- 社会貢献が開いたブラウザ活動への道
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