急成長に次ぐ急成長で30代前半で社長に!:挑戦者たちの履歴書(85)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、ジュニパーネットワークス社長の細井洋一氏がバイテル・ジャパンで活躍するまでを取り上げた。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
1985年の電電公社民営化と通信事業自由化に伴い、バイテル・ジャパンは晴れて正式に通信事業者として認定され、大々的にビジネスを拡大していった。当時、バイテルの主たる業務は国際テレックスの中継サービスだったが、通信業界はちょうどこの時期、大きな変革期を迎えていた。ファクシミリ(ファックス)の台頭だ。
日本国内におけるファックスの普及は早かった。特に、1980年代後半にバブル景気が訪れると、企業はこぞってファックスを導入・活用して情報を発信するようになった。細井氏も、当時の状況を振り返って次のように話す。
「バブル景気のころは、どの企業も経費を節約することよりも、『いかに宣伝するか』『いかに顧客にリーチアウトするか』ということを最優先に考えていた。そして、そうしたニーズに、ファックスの同報通信は極めて良くマッチしたんです」
ちなみにテレックスはというと、ファックスの急速な普及に伴い、徐々に市場から姿を消しつつあった。バイテルのテレックスビジネスも縮小に向かったが、一方で同社には先見の明があった。ファックスがブームになる以前から、将来のファックス普及を見越して、ファックスを使ったビジネスモデルの開発を進めていたのだ。テレックスからファックスへの通信手段の転換に乗り遅れなかったどころか、逆に先陣を切ってファックスの新ビジネスを展開していった。
同社が当時、他社に先駆けて提供を開始したのが、ファックスの同報通信サービスだ。例えば、海外から送られてきたファックスを国内数百カ所に一斉に配信したり、あるいは海外から入ってきたテレックスをファックスにメディア変換し、同じく一斉配信したりするものだ。
当初は配信やメディア変換の作業を手動で行っていたが、その後パナソニックと共同開発したシステムを導入し、自動化を実現した。さらに、これまで直販のみで販売していたサービスを、パートナー企業経由の間接販売でも提供するようになった。細井氏はゼネラルマネージャとして、ファックスサービスの営業やトラブル対応に奔走する毎日を送っていた。
バブル景気の追い風にも乗って、バイテル・ジャパンの売り上げは急成長を遂げた。あまりにも成長が早過ぎて、回線を増設してもまたすぐに足りなくなってしまうほどだったという。こうした業績を認められ、細井氏は1986年に同社の専務取締役に、その翌年には代表取締役社長に就任した。
「社長に就任したときは、まだ32歳か33歳だったと思います。会社も急成長してましたし、もう『イケイケドンドン』でしたね!」
しかし、細井氏はただ時流に乗ってファックスサービスを売りまくっていたわけではなかった。冷静に次のトレンドを読んでもいたのだ。
「面白いことに、欧米のファックスの普及率って、日本ほどではなかったんですよね」
それはなぜか。欧米はタイプライターの文化が根強い。従って、タイプした文字をそのまま送ることができるテレックスは、いち早く普及した。しかし、ファックスは紙にプリントアウトしたもの、あるいは紙に書き起こしたものを送るサービスだ。これは、タイピング文化の欧米より、むしろ日本の文化にマッチしたものなのだと細井氏は解説する。
「例えば、人に道順を教えるとき、日本人だったら必ず紙に地図を書いて説明しますよね? でも、欧米人は必ず文章で書き表すんです。それだけ欧米では、タイプ文化が根強いということなんですね」
こうした理由から、細井氏は「欧米人は将来、必ずファックスから電子メールへ移行する」と読んでいた。そこで、これも他社に先駆けて、電子メールとファックスとの間のメディア変換サービスを開始した。自社で顧客専用のメールボックスを設置し、そこに入ってきた電子メールの内容を自動的にファックスに変換し、配信するというものだ。このサービスも外資系企業を中心に、非常に好評を博したという。
こうして、80年代から90年代初頭まで、テレックスに始まりファックス、電子メールと通信サービスのトレンドが急速に変遷した時期を、通信業界の最前線で駆け抜けた細井氏。
「あのころはもう、毎日がチャレンジの連続で、本当に面白かったですねえ!」
この続きは、2月16日(水)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
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