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写真と日本人(2/3 ページ)

» 2005年03月22日 12時39分 公開
[小寺信良,ITmedia]

写真に対する国民性と習慣

 これはおそらく、家族の写真を持ち歩く習慣があるか否か、あるいはオフィスのデスク上に家族の写真を飾る習慣があるか否か、ということにつながってくるのではないだろうか。

 筆者の場合を考えてみると、家族の写真はiPod Photoはもちろん、紙の写真も持ち歩かない。今は家で仕事をしているので、上の子供が小学校に行っている間を除けば、四六時中家族と一緒に居るからだろうか。

 しかし筆者も数年前までは、スタジオに入って仕事をしていたので、ほぼ普通のサラリーマンのように外に出勤していた。だがその時も、写真を持ち歩くことはなかった。

 男というのはいったん社会に出ると、家族のことなどあまり人には話さないものだ。つまり、社会的にはオレに家族はあろうがなかろうが関係ないだろう、というあり方である。仕事である程度親しくなった人に対しても、あまり家族のことを根掘り葉掘り聞くのははばかられる。

 ところが日本人でも、海外赴任の経験者、あるいは外資系企業となると、妻子の写真を持ち歩いたり、オフィスのデスクに子供の写真を飾ったりするのが普通になってくるようだ。いったん現地での習慣に合わせてしまうと、抵抗がなくなるものらしい。自分の家族を見られると恥ずかしいと思うのは、日本人同士の間だけの感情なのかもしれない。

 筆者の仕事部屋のコルクボードには、子供らの写真がたくさん張り付けられている。だがそれは、この部屋には家族しか出入りしないことが前提としてあるわけで、これがどこかの会社のオフィスのように人目につく場所なら、おそらくそんなことはしないだろう。

 この「人目につく」という言葉には、微妙な機微が含まれている。ただ見られるだけならば、「目につく」でいいはずだ。そこに「人」の時が入ることによって、単に見られるだけでなく、その視線を快いものだとは感じていないニュアンスが加わる。すなわちここでの「人」とは、「赤の他人」の意味に等しい。

 日本人にはいつの頃からか、家族や家庭の内情に対して、他人の干渉を避ける傾向が生まれたようだ。源氏物語には、垣根越しに他人の家のいざこざを見て関わりになるような表現もある。長屋住まいの熊さん八つぁんの仲なら話は別だが、平安時代あたりでは貴族階級であっても、他人の干渉をイヤがる風潮はなかったと考えられる。おそらくはそれ以降に伝来あるいは発生した、思想や教育の影響であろう。

出自証明としての写真

 写真を持ち歩くか否かによって、その人の家族に対する愛情を評価すべきではない。だが欧米では、どうもそれを自分という個人の安全性を表現する手段として使っているのではないか、という気がする。つまり家族の写真を見せることで、自分には愛すべきものがある普通の人間である、すなわち自分は安全な人間である、という証明なのではないか。

 握手という挨拶は、多くの人の利き手である右手に何も隠し持っていないことを証明するための手段として、あるいは利き手の自由をお互いが同時に拘束することで安全性を確認するという意味で発生し、定着した。

 すなわち信頼の印としての握手は、自分が無防備であるということをさらすということが前提となっている。家族の写真を知り合った人に(例えたまたま隣に座ったという程度の相手でも)見せるという行為は、握手と同じ意味を持ち始めているのではないだろうか。

 その人の家族を知るということは、その人のバックボーンを知るということになる。また同様に、その人の家族に対するアプローチを知ることにもなる。「人と会って臆した時、その人が妻とふざけているところを想像するといい、そうすればたいていの相手は取るに足らないように見えるものだ」と書いたのは、『竜馬がゆく』の司馬遼太郎だったか。

 iPod Photoには、液晶をカラーにするための理由付けとして、写真も見られるようにした、というネガティブな捉え方もあるだろうが、そもそも開発段階の意図には、家族の写真を手軽に持ち歩けたらいいよね、という発想があったことだろう。

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