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私が「ドラクエ」から“Vチューバー”アイドルのプロデューサーになった理由スクエニ取締役・齊藤陽介の仕事哲学【後編】(4/6 ページ)

» 2018年12月25日 08時15分 公開
[河嶌太郎ITmedia]

バトルえんぴつに携わる

――入社当初は希望通り玩具に配属され、大ヒット商品の「バトルえんぴつ」などに携わられていたようですね。なぜそこからゲーム開発の現場に行かれたのでしょうか。

 最初は「ドラクエ」のグッズに携わることができて、会社の選択は間違っていなかったと思いました。ところが、「どうも新入社員で声がでかくてうるさくて面白いやつがいるらしいぞ」ということで、入社2年目からゲーム部門に呼ばれたのです。

 それまでは「なぜゲームは開発スケジュールがいつも遅れるんだろう」「なぜこんなに遅れることが当たり前みたいになっているんだろう」と思っていました。グッズであれば、例えばプラスチックなどの射出成形物だと、一日に何個金型からはき出して商品ができるという決まったスケジュールが明確にあるし、印刷物であれば、何月何日までに何部作れますよというのが明確にスケジューリングできます。私はそういう部署にいたものですから、「俺が直しに行ってやる」という気持ちで異動しました。今思えばお恥ずかしいのですが、若気の至りというやつですね。

――ゲーム部門に移られて、どのように考え方が変わりましたか。

 異動して3カ月ぐらいで、「デジタルといわれるゲームこそ、人が作っているんだ」と痛感させられました。人が作っているからこそ、スケジュールが読めないことや、見えないところがあるということが初めて分かったのですね。さっき申し上げた印刷物だったりプラスチックだったりという目に見えるものは、作り始めたらもう数が読めるんです。一方ゲームは、それが見えないからこそ面白いのだと考えるようになりました。

 新しい環境になったことで、毎日何か違うイレギュラーが起こります。全く前が見えないところを進んでいくのはしんどかったですが、言葉に表せないくらい楽しかったですね。

――その後、ゲーム開発に携わられていて、人生の中で転機みたいなものはあったのでしょうか。

 ターニングポイントと言えば、やはり03年にスクウェアと合併をしたことでしょうか。もしかしたら合併をしてなかったら、あまり何も考えてなかったので外に出ていたかもしれません。私はちょうどそのとき30代前半という年齢で、周りを見ても30歳前後で独立する人もいましたし、転職する方も一番多い時期でした。私も「面白さ」というものを、もっと突き詰めたいと考えていたのです。しかし合併が起こったことで、環境ががらりと変わりました。結果会社に残って頑張ろうと思い現在に至ります。

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