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令和の典拠『万葉集』 中西進が語る「魅力の深層」【前編】今読まれるべき「大和のこころ」(2/5 ページ)

» 2019年04月18日 05時00分 公開
[中西進ITmedia]

人麻呂の感懐――宇治・飛鳥

 柿本人麻呂の有名な歌に次の一首がある。

もののふの 八十氏河(やそうぢかは)の 網代木(あじろぎ)に いさよふ波の 行く方知らずも(巻3-264)

 題に、近江の国から上京してきた時、宇治川のほとりで作った歌だとあるが、私はこの一首を、まことによく宇治を象徴するものだと考える。

 いま人麻呂は大和へ帰ろうとしている。その途中、宇治川のほとりに至った時に、この感懐をもよおした。この感懐とは、近江の都滅亡の追懐である。つまり大和の現在の都と近江の過去の都との間に立って、現実に壮麗を誇る藤原京と今や満目に荒廃をたたえた近江の宮とを比べているのであって、宇治は、よく両者の間たりえたのだった。近江にいれば荒都しか考えられない。大和にあれば繁栄にしか心が及ばない。そのそれぞれに距離をおいて、両者を考えさせる土地が、宇治だったのである。

 人麻呂はここまで帰って来て、都の造営とは何だったかを考えたことだろう。いま、すべては空しくなっているではないか。彼は、空しくさせた戦乱なるものを思いやっていたであろう。『懐風藻』(かいふうそう)によれば「悉(ことごと)く煨燼(わいじん)に従ふ」とある。近江の都が兵火に滅びなかったとしたら、これは文飾だが、壮麗な建物群は、春草の茂るにまかせていたのだから。

phot 751年に編纂された日本最古の漢詩集『懐風藻』 (講談社学術文庫)

 この省察から導かれたであろう心の翳(かげ)りは、人麻呂が日常とする藤原宮が、一見あずかり知らないようでありながら、実はコインの両面のように抱きかかえている一面だった。そしてこの翳りは、当然「もののふ」(宮廷奉仕の者)としての自らの未来への不安となっただろう。いまの繁栄はたまゆらにすぎないかもしれない。人麻呂をしてわが身を波にたとえさせ、行く末の測りがたさを嘆かせたのも、今都にいなかったからである。

 盲目の繁栄に反省をもたらすといえば、宇治を都のアンチテーゼとして舞台設定した『源氏物語』を思い出す。皇位の争いにやぶれた「世にかずまへられぬ故宮(ふるみや)」、八宮(はちのみや)をここにおいて、ひたすらな道心を彼に与えたのは、人麻呂における宇治の心の、みごとな精神的継承であろう。

 いや、むしろ万葉に先立って、ここにいた宇治稚郎子(うじのわきいらつこ)を思い出すべきかもしれない。彼もまた、皇位継承の争いに破れて、おそらく自害したであろう皇子であった。墓の真偽はともかく、ここに今も眠る皇子はそのまま源氏の八宮のモデルであるにちがいない。

 こうした都の圏外に去った人間たちのいるべき宇治で、人麻呂は都の繁栄とは何かをしみじみと考えたことを、重視しなければならないだろう。稚郎子と宇治の八宮との間に割って入るように、万葉に一首に託された瞑想と省察と反省が存在することは、風土というものの特質をよく語っているではないか。

phot 宇治市にある『源氏物語』の紫式部の石像(写真提供:ゲッティイメージズ)

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