斉明七年(661)の斉明天皇一行が西征した時の一首、有名な熟田津(にきたつ)の額田王(ぬかたのおおきみ)の歌(巻1-8)と天平八年(736)の遣新羅使人一行の歌々(巻15-3617以下など)とでは、時代も歌の内容も大層違っている。場所も、前者は四国での歌だし、後者は中国がわの歌である。
しかし両者はまったく別のものではない。ともに新羅を相手とする船旅にかかわるもので、大きな困難をかかえた国家的な規模による旅であった。そこに、古代日本が新羅に対してもった、長く深い因縁を強く考えておくべきであろう。先には新羅と戦う征旅(せいりょ)であり、後には友好を求めるべき派遣であった。しかも友好が求めがたく、悲惨な結果に終ったらしいことは、よく人の知るところである。
そこで両者の旅は、好一対をなしつつ、事柄の両面を見せてくれる。
まず斉明朝の旅は、やはり那の大津を目ざし、さらに韓半島を望むものであった。その上でいささか航路を迂回した感じで、伊予の熟田津に寄港したと理解される。それなりの必要があったからである。
必要とは、これだけの船団が一挙に大津まで航行するのが不可能だったのではない。途中の大港である熟田津に一旦(いったん)寄り、兵站(へいたん)をととのえ、かつ出湯に老女帝の休養をとること、またここの伊佐爾波(いさにわ)の神に祈ることなどが要求された。幸いここは聖徳太子以来ゆかりの地であり、行宮(あんぐう)も営まれていたし、何より女帝には曾遊(そうゆう)の土地であった。持統における吉野のように、斉明には舒明(じょめい)との思い出があった。
額田王の歌は、こうした朝廷の最高層の意思のただ中にあって、よまれた。それなりの格調の高さは必然のものであった。
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