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絶体絶命のファーウェイ、「伝説の創業者」のDNAに見る“それでも強気な理由”【前編】いかにして「苦境」を乗り越えてきたか(1/5 ページ)

» 2019年05月29日 05時00分 公開
[高口康太ITmedia]
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photo 世界的な「ファーウェイ排除」の動きに、絶体絶命の窮地に追い込まれたかに見えるが……(写真提供:ロイター)

 米国の制裁に揺れる中国通信機器・端末大手のファーウェイ。絶体絶命の窮地に追い込まれたかに見える一方、創業者の任正非(じん せいひ)を筆頭にファーウェイ関係者は強気な姿勢を崩さない。

 それは単なる強がりではない。1987年の創業から32年、ファーウェイは幾多の苦難に追い込まれてきた。破綻寸前の危機を経験したことも1度ではない。その経験から、業績好調の時ほど危機に備える慎重さと、どんな苦境でも諦めないタフネスというファーウェイの企業文化を生み出した。

 ファーウェイとは何者か? この問いの答えを得るには、任正非とファーウェイの歴史を知る必要がある。前編と後編の2回に分けて、任正非の生き様を振り返り、ファーウェイという企業の実像に迫る。

photo 任正非(じん せいひ) 1944年中国南西部の貴州省生まれ。人民解放軍の工兵部隊で化学工場の建設を担ったほか、石油会社でも勤務した。1987年に中国・広東省深セン市の住宅の一室で創業し、1代で年間売上高11兆円を超えるグローバル企業に育て上げる。創業当初は通信会社向けの小型交換機の代理販売を手掛けた。その後、通信機器の自前開発に切り替える。年間売上高の1割以上を研究開発に投じるルールを設け、世界でシェアを伸ばしてきた。実は大の親日家で、日本のラーメンが好物だ。演歌は「北国の春」がお気に入り(ファーウェイを視察する習近平国家主席を案内する任正非、写真提供:ロイター)

辺境での極貧生活

 任正非は1944年10月25日、貴州省安順区鎮寧ブイ族ミャオ族自治州で生まれた。著名な観光地として知られる黄果樹瀑布の所在地として有名な場所だが、険しい山々に囲まれた山岳地帯だ。

 任が両親の人生を振り返ったコラム「私の父親母親」によると、父・任摩遜は抗日戦争に身を投じた「熱血青年」だった。彼の父は大学時代から抗日運動に身を投じ、共産主義青年団に所属していた。国共合作が成立すると、広東省の国民党系軍需工場で会計員として働いたという。戦火の最中で工場の移転に伴い、貴州省に居を移した。任摩遜はその後教師となり、同じく教師の程遠昭と結婚し家庭をなした。

 任正非は7人兄弟の長男として生まれた。一家の暮らしは大変厳しいものだった。辺境の教師の給料などたかが知れている。「シャツを買う金もなく、夏になってもコートを着ていた」と任はかつての生活を描いている。

 暮らしは貧しかったが、教育熱心な両親の支えを得て、任は63年に重慶建築工程学院(後に重慶大学と合併)へと進学する。その在籍中に起きたのが文化大革命だった。国民党軍の工場で働いていた経歴を持つ父親も批闘(暴力的な吊し上げ)の犠牲となった。

 知らせを聞いて慌てて故郷に戻った任に、父親は頑として言い渡した。「ここにいる姿を人に見られればお前の将来に影響するだろう。すぐに大学に戻れ」、と。そしてこう続けた。「知識こそが力だ。人が勉強しなくてもお前は勉強し続けろ。時代に流されるな」。不動産バブルなど世間のブームに流されず、ただひたすらに研究開発に邁進(まいしん)するファーウェイの企業姿勢は、あるいはこの父親の言葉に従っているのかもしれない。

photo 2018年10月に上海市で開催されたイベント「ファーウェイ・コネクト2018」。ソフトウェアからAIチップまで全てをファーウェイ1社で準備するフルスタック戦略の発表。筆者撮影。
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