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絶体絶命のファーウェイ、「伝説の創業者」のDNAに見る“それでも強気な理由”【前編】いかにして「苦境」を乗り越えてきたか(3/5 ページ)

» 2019年05月29日 05時00分 公開
[高口康太ITmedia]
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輸入業者としての旅立ち

 87年、任は5人の仲間とともにファーウェイを創業する。「どこも雇ってくれなかったので、仕方なく起業した」と、後に任は自嘲気味に起業の理由を語っている。最初のオフィスは広東省深セン市郊外の農村にある、古びたマンションの一室だった。

 事業は電話交換機の輸入販売だ。改革開放が始まり電話需要が激増するなか、政府機関や企業に設置する交換機の需要が高まっていた。輸入にはさまざまな許可が必要となるだけに、首尾良く輸入できれば仕入れ値の2倍で売れるというぼろい商売だった。

 暴利に思えるが、それでも需要のほうがはるかに多く、購入者は品物の届く数カ月前に予約金を支払う必要があった。許可を取る力さえあれば、手持ち資金すら要らない商売というわけだ。もっとも、おいしい商売には山のような参入者が登場するのは道理である。次々と参入者が現れ、電話交換機の輸入業はたちまちレッドオーシャンと化した。どこの業者を使っても届くのは外国の製品なのだから品質は似たようなものだが、任は故障時の速やかな対応や代用機の貸与など顧客サービスを徹底し評価を高めていった。

 89年、電話交換機輸入業界に転機が訪れる。交換機製造に参入した国営企業を守るため、政府が輸入規制を強化したのだ。輸入業者は次々と潰れていく。ファーウェイの業績も悪化していった。ライバルたちが別の商売に転身していく中で、任はまったく別の道を選んだ。それが自主開発という茨の道だった。

photo 広東省深セン市のファーウェイ・キャンパス。食べ放題の寿司レストランもあった。2018年4月、筆者撮影。

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