こう書くと、一部の人は「ネットを使ってコミュニケーションすれば自分のことが省みられるじゃないか」と考えたがるかもしれない。
ネットを介して自省する筋道もなくはないだろう。だが、実際はほとんど期待できないのではないだろうか。
つい最近、Books&Appsでコラムを書いている高須賀さんが、これに関して一つの問題提起をしていた。
誰にも尊敬されない孤独な老人から想像する、ネット右翼の発生、そしてジャパニーズ・ラストベルトの誕生。
と、ここまで書いていて僕はものすごくマズい問題に気がついた。ネトウヨ問題である。
上で、コミュ障はインターネットでなんらかのコミュニティーに所属するといい、と書いたけど、これができるのは自分に何らかの趣味だとかがある人だけである。
将棋ができない人が将棋コミュニティーに入るのは難しいのを考えてもらえれば、分かりやすいだろうか。
では、何もアイデンティーがない人は、最終的には一体どこのコミュニティーに所属することになるのだろうか?
実はそれがネトウヨなのである。
AERA.dotの66歳男性の記事から高須賀さんがたどり着いたのは、「アイデンティティーが何もない人はネトウヨになる」という問題だった。
自分自身を省みる力もない人がネットをよすがとした時、例えばネトウヨのようなアイデンティティーの入れ物におさまるというのはよく分かる話だし、実例も見かける。
「政治的なセクト」「思想的なセクト」「趣味的なセクト」……その他いろいろあるが、とにかくネットではセクトができやすい。
セクトと一体になることによってその人の承認欲求や所属欲求が充たされ、アイデンティティーも補償されるのだから、その可否はともかく、セクトができるのは理解できる。
だが、セクト化した人は、得てして自分自身を省みなくなる。セクトメンバーとつるむなかで、「自分たちは悪くない」「悪いのは自分以外のあいつら」といった考えに傾いてしまう。
この文章のテーマに立ち返って考えるに、そういったセクトは唯我独尊に対するブレーキたり得るものだろうか。いや、おそらくブレーキにはならず、自己正当化のためのアクセルになってしまうのではないだろうか。
意見の同じ者同士はつるみやすいけれども、意見を異にする者や異議を唱える者とは対立しやすい――そんなSNSというアーキテクチャ自体が、私たちに自省よりも自己正当化を促しているきらいがあるとしたら、「ネットで唯我独尊を避けるのは現実世界以上に難しい」のではないだろうか。
こんな具合に、幾重にも重なった、唯我独尊に陥りやすい社会の構造のなかで私たちは暮らしている。
だとしたら、唯我独尊はお金持ちやナルシシストだけの問題というより、貧富を問わず、誰もが陥りやすい現代社会の風土病みたいなものだと解釈しておいたほうが事実に近いように、私には感じられる。
だから私は、くだんの66歳男性のようなケースには戦慄せずにはいられない。
ひょっとしてあれは、未来の自分の姿ではないのか……と。
1975年生まれ。信州大学医学部卒業。地域精神医療に従事する傍ら、現代の社会適応や心理的充足について、ブログ上で発信を続けている。“精神科臨床の「診察室の風景」と、ネットコミュニケーションやオフ会からみえる「診察室の外の風景」とのつじつま合わせ”にこだわっている。著書に『「若作りうつ」社会』(講談社)、『ロスジェネ心理学』(花伝社)など。
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