くだんの66歳男性は、唯我独尊に陥ってしまった現代人としては1つの典型であろう。
親族にこれだけ疎まれても我が身を振り返らず、鴻上尚史さんにアドバイスを求めるほかなかったわけだから、自分自身を省みる力が相当乏しかったのだろう。
「会社でしっかり働けている自分は立派な人間、そうでない人間は駄目な人間」といった先入観にとらわれやすい世代とはいえ、気の毒なことである。
さて問題は、私は、あるいはあなたは、この気の毒な男性のことをどこまで他人ごととして構わないか、ということだ。
私たちは今、相互不干渉が通念として定着した、誰かに叱られたり注意されたりしにくい世界で暮らしており、赤の他人から叱られる機会は非常に少ない。近所の人や地域の人から「おまえ、そんなばかなことをやってどうすんの」などと言われる筋合いなど、どこにもなくなった。
万が一、そのように言われたとしても、「どういう筋合いでお前はそういうことを言っているのか」と反感が先立つのがおちである。
そして年を取り、何らかの地位に就いていれば、ますます叱られることはなくなり、注意も忠告もされなくなる。
コミュニケーションの失敗確率が高くなるような言動を繰り返していても、面と向かってそれを注意してくれる人はそういない。「お互いに争わない」「お互いのストレスを回避する」といった言葉は、相互不干渉を貫く格好の大義名分になる。
家族や兄弟ですら、三回も言って変わらなければ「もう言うだけムダだから、なるべく離れて暮らそう」という風に思うだろうし、一人暮らしなどしていたら、本当に誰も自分を叱ったり注意したりしてくれない。
相互不干渉を是とし、お互いのしがらみを最小化し、アトム化した個人主義者として皆が暮らしていく社会ができあがったことによって、私たちは、「他人から叱られる」「注意される」「忠告される」といった学習ルートを失ってしまった。
失ったと言って言い過ぎだとしたら、「そういう学習ルートが希少になった」と言い換えていただいて構わない。
そのような社会では、むやみに争うこともないし、ストレスも回避できる一方、自分自身の言動のよくない点を省みる力が乏しければ自分の言動が改められない。
信頼できる他人から叱られたり注意されたりすることもなしに、自分自身の言動を省みるのは非常に難しい。
そして自分自身の言動を省みることに慣れていない人は、仮に誰かから何か言われても、得てして自分自身の言動を省みない。
だとすれば、この相互不干渉の浸透した個人主義社会は、自分自身を省みる機会も能力も無い唯我独尊の人間を大量生産する社会、になってしまっているのではないだろうか。
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