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田坂広志が社会人1年目に味わった絶望感――逆境を越えられた理由は「研究者視点」と「心の師匠」知の賢人・田坂広志が語るキャリア論【前編】(3/6 ページ)

» 2019年08月06日 05時00分 公開
[小林義崇ITmedia]
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優れた上司から技術と心得を学ぶ「私淑の技法」

 もうひとつ、私が仕事に取り組む上で意識していたのは、“素直さ”です。7年も遅れて実社会に出た人間ですので、誰からでも素直に学ぼうと意識しました。特に、仕えた上司からはいろいろなことを学ぼうと思いました。

 そして、仕えた上司という意味で、私は恵まれていたのかもしれません。なぜなら、私が最初に仕えた上司のA課長は“営業の達人”でした。入社後、私は、その上司のすぐ隣の席に置かれたのですが、それは有り難い天の配剤であったと思います。私は、この上司から、非常に多くの学びを得ることができました。

 特に勉強になったのは、A課長の電話応対です。高い営業力を身につけた人の話は、何を聞いても勉強になります。まずはリズム感が良い。また、相手の気持ちを察する力がある。そして、相手の気持ちを遠ざけない話し方ができる。こうしたことを、私はA課長の隣の席で仕事をしながら、電話でのやりとりを聴くことによって学んでいました。顧客からクレームがついたとき、現場にプロジェクトを回すとき、社内での仕事の調整、さらにはゴルフの打ち合わせのやり方まで、A課長の電話は、全て勉強になりました。

 今の若い人が成長の壁に突き当たって苦労するのは、優れたプロの話術を近くで聴く機会が少なくなっているからなのかもしれません。もとより、上司のプレゼンを聴く機会などはあるでしょうが、実は業務における電話のように、日常的な会話の方が勉強になるのです。

 「学ぶ」ことは、「まねぶ」ことと同義です。目の前にいる優れた人物を心の中で「師匠」と思い定め、その仕事をする姿から、言葉を超えて直接その技術や心得を学ぶ。これは、「私淑の技法」というもので、「反省の技法」と並び、人が成長する上で大切な技法です。

 当時の私は、同僚から「A課長と話し方が似てきたな」といわれるほど、話術をはじめ、さまざまなことを学んでいました。ある日、いつものようにA課長の隣の席で仕事をしていた私に、A課長は「その席は狭いだろう。あちらに両袖の広い席が空いたから移るか?」と親切に声をかけてくれました。そのとき私は、迷うことなく「いえ、この席で結構です」と答えました。

――それは、私淑を続けるためでしょうか。

 そうです。当時の私は、この上司の電話のやりとりを聴けるこの隣の席を失いたくなかったからです。昔から「師匠とは、同じ部屋の空気を吸え」という言葉がありますが、当時の私は、そのことを実践していたのだと思います。若い人は、師匠から直接に高度なスキルを学べると思っているかもしれませんが、そうした学びの姿勢では限界があります。むしろ、師匠の一挙手一投足から学ぶ姿勢こそが重要です。

 ただ、いま振り返ると、当時A課長の部下だったのは私だけではありませんでした。では、その部下が皆、A課長から深く学んだかといえば、そうではなかった。実は、私のようにA課長から学ぼうという姿勢の同僚は、あまりいませんでした。もしかすると、彼らはA課長の優れた技量に気が付いていなかったのかもしれない。また、どこかでA課長を軽く見ていたのかもしれません。

 特に、高学歴でプライドが高い人は、あまり人の良いところを見ない傾向があります。そして、人を批判的に見る傾向がある。人を批判的に見ることによって自分が偉くなった気になる人は少なくない。しかし、本当は、人の良いところを見て、謙虚に学ぶことこそが、成長への近道だと思います。

――なぜ、田坂さんはA課長を「私淑する師匠」にできたと思いますか。

 そもそもA課長には人間力が備わっていたと思います。ただ、私はA課長と一緒にお酒を飲む機会があまりなかったので、A課長の欠点が見えなかったのかもしれません。昔から「侍者の目に英雄なし」という言葉がありますが、近づきすぎると、その人の良い面が見えなくなるということもあります。

 このA課長の人間力を感じる場面は何度もありましたが、ある日、仕事でライバル関係にある企業の営業課長から私に電話がかかってきたときのことはよく覚えています。その課長からは「2人で飲まないか」と誘われたのですが、私は、「当社の内情を聞き出すためだろう」と思い、少し警戒しながら同席することにしました。しかし、酒も進み、打ち解けたときに、その課長が、こう言ったのです。「俺ね……、A課長のこと、好きなんだよな……」と。仕事のライバルにまで好きと言わせる。やはりA課長はすごい人だったのでしょう。

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