講義スライドでも言及したとおり、「情的な楽しい」と「意的な楽しい」でどちらがよいかわるいかの話ではありません。感情と意志はどちらも必要なものであり、その複雑な混合と相互影響によって人は動いていきます。ただ、それぞれの人において、その混ざり具合や優位性に個性があり、また、一人の人間でも人生のときどきで混ざり具合や優位性が変化してくるわけなのです。
一般的には、若いときほど多感であり、「情」優位の精神になるでしょう。「好き・嫌い」や「快い・気持ちいい」が行動を主導します。問題は中高年以降です。うまく成熟が進むと、「意」が優位となり、「正しい・正しくない」や「泰(やす)い・意味のある」が行動選択に大きな影響力をもってくるようになります。いわゆる思慮ある落ち着いた大人ができあがるわけです。私自身も多少このように順調に成熟できたのかなと思います。
ところが、中高年になってキャリアで悩んでいる、仕事生活でモヤモヤ感に覆われている人をみると、依然、「情」ベースで仕事に向き合っている場合が多いように見受けられます。命じられた仕事が好きになれるかどうか、自分の仕事ぶりはまっとうに評価されているかどうか、会社や上司のやり方が気に入るか気に入らないか、など。もちろんこうした感情的な悩みや不満はあって当然ですが、その次元に留まっているかぎり、キャリアは開けてきません。
「情」ベースの生き方は、基本的に受動的で反応的にならざるをえません。会社員として振られる仕事や立場は、ほとんどが経営側からの意思のもので、自分の「楽しい」にかなったものに当たることはきわめて稀です。また人間関係においても、多様な人が集まる職場において、「楽しく」付き合える人はそう多くありません。感情的に反応しているかぎり、「快」を得られないことばかりなのは当然です。
一部には「人生、仕事がすべてじゃないだろう」ということで、仕事以外のところで「快」を見つけて生きていけばいいという割り切りの考え方もあります。それはそれでいっこうにかまいませんが、ここで認識したいのは、「快」は本質的に持続しない喜びだということです。人生100年間を「快」で埋め尽くすのは難しいことのように思えます。「快」は人生の目的としてあるというより、何か主たる目的成就の奮闘があり、そこに至るまでのところどころに、よきスパイスとして、よき薬として、よき花としてあるもの、あるいは手段・ごほうびとしてあるものととらえたほうがいいでしょう。
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