でんぱ組.inc、虹コンの生みの親「もふくちゃん」に聞くディアステージ立ち上げ秘話起業しか生きる道がなかった(1/5 ページ)

» 2022年03月16日 05時00分 公開
[柳澤昭浩ITmedia]

 「生きる場所なんてどこにもなかった」「マイナスからのスタート、舐めんな!」――。

 YouTubeで800万回近い再生回数を記録しているアイドルグループ「でんぱ組.inc」の楽曲「W.W.D」の一節だ。同グループが結成されたのは10年以上前で、当時は誰もが思い浮かべるアイドルのイメージの枠を超えた斬新な発想で多くのファンの心を捉えた。

でんぱ組.incの「W.W.D」(Amazonより)

 その「でんぱ組.inc」は元々、秋葉原のライブ&バーから生まれた。秋葉原、アイドル、アート領域にも少なからぬ影響を与え、男性だけでなく、女性ファンも多く獲得していった。

 「でんぱ組.inc」に続き、異なるコンセプトのアイドルグループ「虹のコンキスタドール」もプロデュースしているのが「もふくちゃん」ことディアステージ(東京・新宿)所属の音楽プロデューサー福嶋麻衣子さんだ。

 福嶋さんは東京藝術大学を卒業後にディアステージの立ち上げに関わった。2014年には「でんぱ組.inc」を日本武道館のステージに上げた。3月26日からはZeppツアーが始まる。さらに「虹のコンキスタドール」も4月16日・17日に日本武道館2days開催の予定だ。

 インタビュー前編では、福嶋さんの学生時代から就職、ライブ&バー「秋葉原ディアステージ」の立ち上げから、「でんぱ組.inc」を生み出すに至った経緯を聞く。

福嶋麻衣子(ふくしま・まいこ) 東京都出身。音楽プロデューサー/クリエイティブディレクター。テキトーカンパニー代表。東京藝術大学音楽学部卒業後、ライブ&バー「秋葉原ディアステージ」、アニソンDJバー「秋葉原MOGRA」の立ち上げに携わり、でんぱ組.incやわーすた、虹のコンキスタドールなどをはじめとして多くのアーティストのプロデュースを手掛ける。「もふくちゃん」の通り名を持つ(撮影:KAZAN YAMAMOTO)

「就職ってどうやってするんですか?」

――福嶋さんは東京藝術大学を卒業後、美術の会社に就職します。どんな就職活動をしていたのですか?

 藝大で4年生になる前、初めて将来どうするかという問題に直面するんですが、藝大にはしっかりした就職サポートがなかったんです。

 大学には申し訳程度に就職課と言い張るものがあるのですが、小さい棚に企業の求人募集のファイルが並んでいるだけでした。一応、企業の応募要項などは見ることはできるのですが、ほとんどの学生が就職しないので、OB訪問みたいなものがあることも知りませんでした。

 「それって就職課?」と思いましたが、当時はそんなものだと……。「就職ってどうやってするんですか?」と担当教授にも聞いたのですが、「私だって就職したことがないから分からないよ」と言われたのを覚えています。

 誰も就職しないのが普通だったので「就職します」「就活します」とはいえない雰囲気で、確か当時の藝大の就職率は10%を切っていたと思います。就職しない派がマジョリティーで、就活する人は本当にマイノリティーでした。

――そんな中での就職活動はどうでしたか?

 そんな雰囲気だったので、あまりおおっぴらに就活しますとはいえず、試しに企業説明会に行ってみました。忘れもしない外資系消費財メーカーの説明会でした。

 説明会の概要には「私服でお越しください」とあったので、当たり前のように私服、しかも派手なワンピースで行ったら、私以外は全員スーツ。

 キョロキョロする私をよそに「私は、何々大学の3年生で、志望動機は何々で〜」と、どうも質疑のフォーマットが決まっていたんですね。加えて、みんな前のめりで、アピール合戦。

 そんなルールがあるって何も知らなかった私は、「あまりにも勉強してきたことと違うな」と思って、もうそこで心が折れちゃいました。

――いきなりの挫折だったんですね。その後は、どうしたんですか?

 ちょうど、その頃はホリエモンなどITブーム、起業ブームで、就職できないってことは、起業するしか生きる道はないんだと、おぼろげに思っていました。

 ただ、その頃、私は「喪服の裾をからげ」という謎のWebサイトを立ち上げ、オンライン上で作品を公開していたのです。その作品に目をつけてくれた美術ギャラリーの方に声をかけられ就職することになります。だから就活をして就職したわけではないんです。

――福嶋さんが「もふくちゃん」と呼ばれる由来となるものですね。どんな作品だったのですか?

 オンライン上で、いろいろな役職を演じ、動画配信を通じて、作品や商品を売るパフォーマンスをしていました。

 まだYouTubeも普及していなくて、動画コンテンツやWeb配信自体もありませんでした。画像を読み込むのに何分もかかるインターネット環境の時代です。ただ将来、サーバを立てて、1人1個のチャンネルを持つ時代が絶対に来ると思っていました。この取り組みを卒業論文にして、大学を卒業しました。

 活動自体は、2003、4年からで、当時ネットでリアルタイム配信をする人は全くといっていいほどいない状況でした。ネット黎明期で、私の初期の作品やサイトを見ていただき、IT起業家としてその後に活躍する方々にも出会うことにもつながりました。

――学生時代の作品や活動が、今につながるわけですね。どんな学生時代だったのですか?

 社会に出て、初めて変な大学、学生時代だったことが分かりました。高校も音大附属だったので、いわゆる社会の普通とは違う世界で育ち、そういう意味では社会に出て苦労することも多かったです。

 藝大時代は、10人ほどの藝大生を含めた多様な人種の人たちと共同生活をしていました。今はシェアハウスという便利な言葉もありますが、(当時は)「週刊SPA!」の社会の底辺特集で、「藝大生のたまり場」という感じで、2回も取り上げられました(笑)。

 いろいろな人がいて、朝早くからホーミーを歌う人、東洋思想に傾倒し怪しい料理を作る人、狭い庭でファイヤーポイといって火の玉をブンブン回すパフォーマンスをする人、めちゃくちゃでした。気づいたら知らない外国人が住み込んでいたとか、刺激的な毎日でした(笑)。

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