――資金調達もできました。それから「でんぱ組.inc」のプロデュースが始まるわけですね?
DEMPAビルもできて、ディアステージというお店もできた頃、「アイドルやりたい!」って子が現れるんです。今も、「でんぱ組.inc」のメンバーで活動する古川未鈴です。
あまりに「アイドルやりたい!」って言うので、考えたら私もアイドルは好きだったので、最後は「じゃあ、やろう、やろう」って感じですね。でも、アイドルって何からやるんだろう、曲はどうするんだろう、衣装は……。誰もアイドルの作り方、やり方を知らなかった(笑)。
――そんな状態で始まった「でんぱ組.inc」がどうなっていくかは興味深いです。
何も分からない中、アイドルのまね事を始めた感じでした。いろんな曲を聴いて、作曲者にコンタクトし、衣装もこの人にお願いしようとやっているうちに、だんだんいろんな人が集まってきました。「でんぱ組.inc」という箱もできて、曲も出しました。でも1年ほど何もできなかった状態でした。
そんな状況にあってお声がけいただいたのが、アニソン音楽レーベル「Lantis(ランティス)」さんです。その頃のランティスさんは、『らき☆すた』や『涼宮ハルヒ』などの大ヒットで相当多忙だったはずです。音楽プロデューサーの佐藤純之介さんに担当いただき、「ラブライブ!」をプロデュースした木皿陽平さんにもお世話になりました。まだまだ小さかった「でんぱ組.inc」をよく取り上げてくれたなと思います。
「でんぱ組.inc」のメンバーも、『らき☆すた』や『涼宮ハルヒ』といったアニメ、アニソンに憧れて秋葉原にきた子たちなので、憧れのランティスさんでCDを出せると、みんな喜びました。これが、「でんぱ組.inc」を本気でやろうと思ったきっかけです。
――そこから、より本格的にアイドルを目指すわけですか?
既にいろいろなアイドルが活動していましたが、私たちは、別の島にいる感覚を持っていました。私たちの気持ちは、もう少しアニソン、サブカル寄りだったと思います。ただ、「でんぱ組.inc」のアートワークやデザインに、秋葉原によくあるいわゆる「萌え絵」のようなものを打ち出すのは絶対に違うと思っていました。
私たちは、違う文化を持ち込もう、アート界隈の文化を秋葉原に持ち込んだら絶対にびっくりすると思ったんです。実際、当時の「でんぱ組.inc」は、現代美術の人たちとのコラボもしていました。
――この時、藝大時代の福嶋さんの思いが仕事にシンクロしたのですね。周りの反応はどうでしたか?
憧れだった現代美術家の村上隆さんの臭覚は鋭くて、「もふくちゃん、秋葉原でムービー撮ろう!」となり、監督には「スパイダーマン」を撮っているマックG、同作にも出演しているキルステン・ダンストも来て、謎の映像を撮りました。その映像には、「でんぱ組.inc」の古川未鈴や相沢梨紗も出演しています。
そのあたりから、アート界隈で「今、秋葉原で何か起こっているの?」というざわつきが起こって、蜷川実花さんにも興味を持ってもらい、まだ「地下アイドル」だった「でんぱ組.inc」を撮ってくださいました。
――アイドルとはちょっと変わった立ち位置からメジャーデビューを果たすわけですね?
「地下アイドルです」という感じに撮られた写真でも、勘のいい人はアートを感じ、熱量を感じたと思います。
当時、まだ「クールジャパン」という言葉が出る前だったのですが、ちょうどそのムードが作られる前、みんなの価値観が変わる狭間にいたように思います。
11年3月11日地震が起こる直前でした。トイズファクトリーの社長さんがご来社されて、その日のうちに「でんぱ組.inc」のデビュー契約を結んでくれました。今も忘れることができません。そこから「でんぱ組.inc」の活動が広く世に知られるようになっていったのです。
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