でんぱ組.inc、虹コンの生みの親「もふくちゃん」に聞くディアステージ立ち上げ秘話起業しか生きる道がなかった(2/5 ページ)

» 2022年03月16日 05時00分 公開
[柳澤昭浩ITmedia]

コンテンツ配信の先駆け

――普通ではなかなか経験できない学生生活だったようですが、勉強の方はどうだったんですか。何を専攻していたんですか?

 音楽環境創造科(音環)でしたが、実は美術に興味があって、3割程度は美術の授業を受講していました。音大附属高校から音大に進学する選択もあったのですが、音大だとアートの勉強ができない。絵は描けないので、音楽で受かっておけば、アートの授業がとれるだろうと。結局アートの勉強がしたいので藝大に行ったのです。

――日本一入学が難しいのは東大ではなく、藝大とも言われ大変な難関だったはずですが、入学試験はどんなものなんですか?

 試験の1つにあるのが、自由演技で、簡単に言うと一発芸みたいなものです(笑)。水を出してびしゃびしゃになった状態でギターを弾いて叫んだ人がいたとか逸話はありますが、私は普通にピアノを弾きました。それだけではインパクトが薄いかなと思い、(20世紀の偉大な米国の作曲家)ジョージ・ガーシュインを弾いて、後は面接でしたね。

 音環の1期生で、倍率は36、7倍と高かったようですが、1学年20人と単純に学生数が少なかっただけだったと思います。そんなことで同級生が大変少ないんです。

――学生時代の卒論ともなる作品では、具体的にどんなことをやっていたんですか?

 今で言うYouTubeチャンネルなどの動画配信コンテンツに近いものを勝手にやっていた感じです。

 例えば、ネットで私が流しそうめんをする様子を配信するとか。1玉流すのに100円とかで、視聴者の注文を受けて「●●さん、お買い上げありがとうございます!」「これから●●さんの流しそうめん流します!」といったコンテンツです。それで結構稼いだりもしていました(笑)。

――今の時代は、当たり前となったSHOWROOMや17LIVEといったネットを使っての双方向コミュニケーションですね。

 まさにそうで、1人で一生懸命やってました。そして、海外の人も見ると思って英語で配信していました。

 一番売れたのがアイスクリーム。アイスクリームを並べて、どんどん溶けていく様子が面白かったみたいです。

 インド人が買ってくれたり、ドイツ人が買ってくれたり、海外の人が買ってくれたアイスクリームが画面上に並んで盛り上がっていました。

 この様子が面白かったのか、当時のネット系メディアにはいくつか取り上げられました。

――この作品や取り組みをきっかけに美術ギャラリーに就職し、どんな仕事に関わったのですか?

 現代美術のギャラリーで、有名なカメラマンさんの作品などの納品に関わったりしていました。

 海外に行って、その方の写真作品を売ったり、納品したり、当時で1000万円を超える作品などを扱っていました。

 勉強になったのは、初めて大金持ちに会うという体験です。藝大の底辺特集に出た自分が、数カ月後には、最上階にカルロス・ゴーンさんが住んでいた麻布ヒルズの客に作品を納品し、絵を飾りに行っていた。

 本当の大金持ちに会う、ハイソな世界に触れたのですが、「あっ、私はこっちじゃないな」と強く思ったのは強烈な体験でした。

 なぜか「これになりたいな」とは思わず、とてもしんどい世界だなと思って、結局そこは1年ちょっとでドロップアウトしてしまうんです。

――「しんどい」とはどんな意味で?

 すごく狭い世界で、当時ホリエモンさんの事件もあって、浮き沈みが激しい世界に見えました。それまでの人間関係もすぐに崩れたりして。次の日には、どうなっているか分からない。

 また、美術品のマーケットは、一部の人たちで成り立っていて、限りなくB2Bという印象が強く入り込むのに政治的に非常に苦労しそうな感じが伝わってきました。私はもう少しB2C寄りのエンターテインメントの仕事がしたいと漠然と感じていました。

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