――その後はどうしたのですか?
知り合いのつながりで、出版社で働きました。そこでは、藝大の大先輩が立ち上げたグラビアシリーズや中学生向きファッション誌の仕事に関わることになります。その時「ああ、私、アイドル好きだったんだ」と思い出しました。
雑誌からタレントやアイドルになる子、モデルやアイドルの卵、この世界に憧れを持つ子たちをみて、純粋にみんなかわいいし、その子たちを売り出す仕事が面白そうだなって思ったんです。
また、グラビアの仕事は、アートの世界とも非常に近く、アートの世界で活躍する篠山紀信さん、この仕事でお会いしたアラーキーさんもいて刺激的でした。他にも、生のフィルムに触れ、見たり、選んだり、細かい仕事も楽しいし、タレントやモデルと関わることも面白いんだなと感じました。
ただ、出版社の仕事をしているのと並行して、秋葉原にライブ&バーを作るというディアステージでの仕事の関わりができ、出版社にいながらそこでの仕事が始まった感じです。
――どんな経緯があってディアステージに?
当時、秋葉原では毎週末に歩行者天国(以下、ホコ天)があって、そこに集まり、メイド喫茶にたむろしていた同人仲間のつながりがありました。たまたま、秋葉原でメイドさんをしていた女の子と知り合いで、彼女が「みんなで、新しいことをやりたいよね」みたいな感じがきっかけだったと思います。
毎週末のホコ天がめちゃくちゃ面白かったんです。歌って踊って、カメラマンがワーッと集まってきて写真撮ってくれるみたいな。ホコ天の盛り上がりを毎日やりたいと話していました。
当時、平日は営業していないクラブが秋葉原にあり、仲間の子たちと1日3万円で月曜から金曜日までを貸し切って、そこでライブハウス&メイド喫茶ごっこ、のようなことを始めたんです。
メイドさんはメイドをやり、歌いたい子は歌う、お酒作りたい子はお酒作る。ホコ天の路上で表現活動をしていた子が集まって、それがディアステージの始まりです。
――いつかは、と考えていた起業を実現したわけですが、経営的にはどうでしたか?
ビジネス自体は、最初だけ少し儲(もう)かったんですね。初期費用も必要なく、1日の場所代が3万円というところと、女の子の時給、飲食の原価くらい。何も買うものもなく、衣装だけ作ったくらいです。それでも毎日行列ができるほどお客さんが入って、これはいけると熱量を感じました。それから、ちょっと大きな場所に移動しようと今のDEMPAビルに移る流れができた感じです。
――いくら好調であったとはいえ、大きなビルへの移動には、問題もあったのでは?
資金の問題です。その大きいビルに移動するには、初期費用で2000万円近く必要でした。他にも機材をそろえるのに数百万。結局2500万必要ということが分かって、それからはいろんな会社に「お金貸してください」と交渉することになります。なんとか2500万を調達するんですけど、返済には6年以上かかってしまいました(笑)。
――24、5歳にとって2500万は小さな額ではなかったと思うのですが、どんなアプローチをしましたか?
何も分からなかったので、お金を持っていそうな会社に、電話をかけていった感じです。さすがに、いきなり「お金貸してください!」はないので「こんな企画があるので、ご面会いただけますか?」というアプローチでした。
ほんとに多くの会社に行って、いろいろな方にお会いしました。ドワンゴさんは、いきなり副社長さんが出てきてくださいました。企画自体も「なんだ、これは?」みたいになって、いろんな人を紹介いただき、いろんな人につながっていき、結局、わらしべ長者的に資金調達につながった感じです。
一緒に動いた子たちも、24、5歳で、右も左も分からない。逆に、怖いものなしだったのが良かったのかもしれません。
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