「我田引鉄」とは何か。
今年は日本で鉄道開業して150年目の節目だ。1872年(明治5年)の鉄道開業は大成功だった。大幅な時間短縮、船舶輸送に迫る大量輸送。鉄道事業は利益と地域の経済振興をもたらした。輸送力は軍部も認めた。現在から振り返れば、それも自動車の普及までだ。けれども、当時の鉄道事業には勢いがあり、政策としても重要な課題だった。
鉄道庁長官の井上勝は「鉄道は国営を原則」として鉄道敷設法を立案し、全国に33路線を予定し、そのうち9路線を12年以内に建設すると定めた。まるで現代の新幹線のような扱いだ。鉄道のある地域、ない地域で振興の格差が現れる。33路線の通過対象にならなかった地域のいくつかは、後に制定された軽便鉄道法によって民間資本の鉄道会社ができた。
鉄道事業に勢いがあった当時、国政を二分する議論があった。「改主建従」と「建主改従」だ。どちらの考え方も根元は同じ。鉄道の有用性が認められ、今後の輸送量が増大すると見込まれる。その解決方法だ。
「改主建従」は、いまのうちに既存の路線を改良、強化すべきだ。新しい路線は後回しでいい、という考え方。その考え方の延長に改軌論がある。日本の鉄道は世界の標準軌より小さな規格(軌間3フィート6インチ=1067ミリメートル)でつくられた。いまのうちにすべての路線を欧米の標準軌(4フィート8.5インチ)に改めよう。
「建主改従」は、現在の線路規格のまま新しい路線の建設を進めよう、という考え方だ。国の予算は限られている。既存の線路を改良するより、新規路線の建設を優先すべき。改軌論などは論外だ。
都市部に支持者を持つ憲政会は「改主建従」、農村部に支持者を持つ政友会は「建主改従」だった。政友会は選挙運動で高らかに新路線建設を掲げ、地方出身議員が鉄道誘致を約束して票を集めた。これが後に「我田引鉄」と揶揄(やゆ)される。
この選挙戦が成功し、政友会は鉄道を欲する地域の票を集めて政権を獲得した。その勢いで1922年(大正11年)に鉄道敷設法を改正し、149路線が予定リストに入った。その後も先行自動車路線として約50路線が加わり、約200路線となった。戦時中に建設中断された路線も多かったけれども、国鉄分割民営化までに着工された路線のほとんどが、このリストの路線たちである。
この法律は87年(昭和62年)の国鉄分割民営化と、それに関連する法整備の見直しによって廃止された。「我田引鉄」時代の終りだ。
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