立川勇次郎は江戸時代末の1862年、美濃国大垣藩(現・岐阜県大垣市)の藩士の家に生まれた。独学で法律学を修め、郷里で代言人(弁護士)を本業としながら教員を務めていたが、「これ位のことでは面白くないから一つ東京でやって見よう」(『財界名士失敗談』)と思い立ち、25歳で妻子を連れて上京した。
実業界に身を投じる決心をした勇次郎は、弁護士の看板を掲げて衣食住の心配がないようにしながら、次々と事業に手を出していく。最初に手を染めたのは炭鉱業だった。
郷里の先輩で読売新聞社初代社長や日銀の初代幹事などを歴任した子安峻(たかし)とともに、1889年頃、九州の楠橋炭鉱(現・北九州市八幡西区)の権利を入手。この炭鉱事業は順調に進むかと思われたが、1892年に石炭価格が暴落。門司、上海、香港など、どこでも「売れ口のない石炭が山をなしている」(『財界名士失敗談』)状況となり、稼いだ利益を全て吐き出し、炭鉱の権利を手放さざるを得なくなった。
元来、石炭価格は乱高下しやすいものだ。当時、「黒ダイヤ」とも言われた石炭は、景気によっては値段が跳ね上がる。もし、あと数年、炭鉱を持ち続ければ日清戦争(1894〜1895)による特需が訪れ、石炭成金になれたかもしれなかった。
このときの失敗について勇次郎は、なにぶん経験不足で、価格が下落したときに機敏に事業緊縮の応急手段を取らなかったのが敗因だったと分析している。
三菱などの大資本は、炭価が下落すればすぐに事業を縮小し、停滞している間は少しも売らずにじっと耐え、回復した相場で一気に売りに出す。言い換えれば、下落中に事業を維持するだけの資本が必要ということであり、これは現在の株取引などでも、まったく同じだ。
後に麻生セメントを創業し、麻生財閥の祖となる麻生太吉(第92代内閣総理大臣・麻生太郎の曾祖父)ですら、若い頃に手掛けた炭鉱事業では、せっかく開鉱した炭鉱を三井や三菱などの大手に売り渡している。弱小資本では炭鉱経営など手に負えるものではないことを、勇次郎は身をもって経験した。
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