炭鉱事業に見切りをつけた勇次郎は、次はまったく畑違いの仕事に手を出す。勇次郎夫人の弟の親友だった棚橋寅五郎(日本化学工業の創業者)が、ヨード製造の改良法を発明し、特許を取得。これを事業化するため、1893年に創業した棚橋製薬所・麻布製薬の経営者となったのだ。
棚橋は技術面の責任者に就任し、さらに勇次郎が弁護士として相続案件を勝訴に導いたことから、付き合いのあった資産家の竹原雄之助を金主として3人で事業を始めた。しかし、これもうまくいかなかった。ヨードの原料となるケルプ(海藻)を買いあさったが、粗悪品をつかまされ、あっという間に事業資金を使い果たしてしまったのだ。
棚橋の回顧録『化学工業六十年』には、次のようなエピソードが記されている。事業開始直後に、棚橋が郷里に帰るため数週間留守にした後に帰京すると、麻布の工場に「堂々たる煉瓦(れんが)煙突」ができている。役所の許可を得て建設したものと思い勇次郎に尋ねると、「急ぐからまず建設した。これから手続きをする」との返答。しかも、工場は煉瓦煙突の禁止区域にあり、鉄製の煙突ならば移動もできるが、煉瓦ではそうもいかない。
困り果てた棚橋は警視庁に通い詰め、とりあえず試製として仮の許可を得て、1年たって問題がなければ本許可とする約束を取り付けたという。こうしたエピソードからは、勇次郎のかなり大ざっぱな性格が見て取れる。
このように当初は失敗続きだった勇次郎が、最初にモノにしたのが電気鉄道事業だった。
勇次郎が電気鉄道に最初に関わったのは1889年、東京市(当時)内に蓄電池式電気鉄道の敷設を出願する案件だった。このときの事情について勇次郎は、「私が電気のことに明るい為にやった訳ではありません」(『工学博士藤岡市助伝』)と語っている。電気鉄道の敷設を計画していた人物から「法律家を頼まなくては、出願することが出来ないというので」(同前)出願の手続きに関与し、これが後に本格的に電気鉄道計画に携わるきっかけになった。
当時の東京市街地の交通事情を見ると、1882年に新橋−日本橋間などに馬車鉄道が開業して便利になった反面、銀座の街にも馬糞が転がっているような不衛生な状況だった。
欧米では1881年にベルリン郊外に世界初の路面電車が開業し、各地に広がっていた。日本にもそうした情報は伝わっていたが、勇次郎による最初の出願はさすがに時期尚早であり、当時の黒田清隆内閣から「詮議に及び難し」として却下されている。
ゼネラルエレクトリック(GE)社の社長、ライス(Edwin W. Rice)夫妻来日時のスナップ。中央ライス夫妻、左右が勇次郎夫妻。京浜電鉄がGE製の発電所用発電機や電車機器を輸入していたことなどからの交遊だろう(提供:立川元彦さん)日本で電車の存在が広く知られるようになったのは、1890年4月〜7月に東京上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会で、後に「日本のエジソン」とも呼ばれる電気工学者の藤岡市助博士らによって電車の試運転が成功したことによる。同年8月に「軌道条例」が制定されると、世間に電気鉄道敷設の機運が高まっていった。
こうした状況を受け、勇次郎もあらためて電気鉄道敷設の出願に及んだものの、多数のグループが対立するなどの問題から東京市内の電気鉄道計画は進まなかった。その間に1895年には京都電気鉄道(後の京都市電)が開業し、続いて1898年には名古屋電気鉄道(後の名古屋市電)が開業した。
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