最後に立川勇次郎の名が、現在はあまり知られていない理由について考えてみたい。おそらく、勇次郎は典型的な創業者タイプであり、時間をかけて事業を育てるのが苦手だったことが大きいように思われる。
東急の五島慶太は社長・会長として長期にわたり東急に君臨し続け、さらに長男の五島昇が経営を引き継いだ。西武の堤家、東武の根津家については、いまさら説明の必要もないだろう。
また、勇次郎は「私は痩せても枯れても独立独歩である。実業家に依頼心があっては到底成功するものではない」(『財界名士失敗談』)と述べているが、裏を返せば、藤岡博士などの少数の友人を除くと頼れる人物が少なかった。
前出の棚橋寅五郎は、『化学工業六十年』の中で「立川君は、事業家として着眼点がよく、かつ努力家でありましたが、不幸にして女房役がなく、君の大ざっぱな性質が、時には累をなすこともありました」と述べている。ソニーの井深大に対する盛田昭夫、ホンダの本田宗一郎に対する藤澤武夫のような名参謀に恵まれなかったのだ。
また、第2次近衛内閣の商工大臣や貴族院議員等を歴任した小林一三や、東条内閣の運輸通信大臣を務めた五島慶太、戦後に衆議院議長に就任した堤康次郎らと異なり政界との関係も淡泊であり、事業を大きくするために必要な人脈・パイプも豊富ではなかったようだ。
さらに小林(84歳没)、五島(77歳没)、堤(75歳没)、根津(81歳没)と比べ、若くして亡くなったのも大きい。棚橋は「天もし君になお十年の年月を假(か)さば、君は必ず大事業を完成されたと信じる」(『化学工業六十年』)と評している。
それでも、勇次郎の功績が偉大であることに変わりはない。郷里では、今も毎年8月に養老鉄道の養老駅前に建つ「立川勇次郎顕彰碑」前で顕彰祭が執り行われている。
【編集部より:立川勇次郎が創業した大師電気鉄道については、筆者の近著『かながわ鉄道廃線紀行』(神奈川新聞社刊)で詳述しています。】
神奈川県内には鉄道の痕跡、いわゆる「廃線跡」がたくさんあります。
湘南の二宮とタバコの産地・秦野を結んだ湘南軌道。「夢の国」への未来的な乗り物だったドリームランドモノレール。横浜や川崎の路面電車、トロリーバス。そして横浜港に網の目のように敷かれた臨港貨物線……。
本書を手に、そんな廃線にまつわるあれこれを、訪ね歩いてみませんか。
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