「忘れられた偉人」京急創業者・立川勇次郎の「意外」に大きな実像没後100年(4/5 ページ)

» 2025年03月03日 08時00分 公開
[森川天喜ITmedia]

大師電鉄と東京市街鉄道

 京都・名古屋に先を越された勇次郎は、悔しい思いをした。そこで、東京市外で「関東に於ケル電気鉄道ノ標本ヲ実験」(『京浜急行八十年史』)し、企業としての電気鉄道事業の成功例を示そうということで、1899年1月に六郷橋―大師間の営業距離約2キロで開業したのが、大師電気鉄道(京急電鉄の前身)だった。

六郷橋―大師間の桜並木を行く大師電気鉄道の電車(1899年1月22日撮影=提供:京急電鉄)

 この全国で3番目、関東では初となる電気鉄道として開業した大師電鉄は、間もなく京浜電鉄と社名を改称。勇次郎は同社の専務取締役(現在の社長に相当)を1903年12月まで務めている。ここで疑問に思うのは、なぜ創業からわずか5年弱で経営からしりぞいたのかということだが、おそらく同時期にようやく事業化された東京市街鉄道と関係している。

 当時の東京市内の電気鉄道計画の動きを見ると、紆余曲折を経て各グループ間の調整が成り、1903年8月に東京馬車鉄道を前身とする東京電車鉄道が新橋−品川(八ツ山)間で電化運転を開始。続いて同年9月に東京市街鉄道が数寄屋橋−神田橋間を開業している。

 この東京市街鉄道は、「軽便鉄道王」として知られた雨宮敬次郎、藤岡市助博士、そして勇次郎ら、東京市内の電気鉄道敷設を出願していた3派が合同し、さらに他グループも取り込んで成立した会社だった。おそらく勇次郎は、自身の中では実験的な意味合いが強かった京浜電鉄の事業は他人に任せ、本命の東京市街鉄道の事業に集中したかったのではないか。

 だが、皮肉なことに東京市街鉄道は1906年9月に他社と合併して東京鉄道となった後、1911年8月に東京市に買収され、東京市電(後に東京都電)となってしまう。他方、京浜電鉄は戦時下に東京急行電鉄(大東急)に吸収されるものの、戦後に京急電鉄として独立し、大手私鉄の1つになった。

2019年1月に行われた京急開業120周年記念式典。勇次郎の曾孫・元彦さん(中央)も来賓として招かれた(筆者撮影)

晩年まで意欲的に事業に取り組む

 勇次郎の事業熱は、その後もとどまることを知らず、さらに多くの事業に参画している。有名なのは、東京−大阪間を約6時間で結ぶ「私鉄版新幹線計画」ともいうべき日本電気鉄道計画だ。勇次郎は、ここでも中心的役割を果たしている。

 同計画は、結局実現せずに終わったが、現在の新幹線と同じ国際標準軌(レール間の幅1435mm)を採用し、全線複線で高速列車を走らせるという画期的なものだった。この構想は、後に戦前の新幹線計画である「弾丸列車計画」(東京−下関間 約9時間)へと引き継がれた。

 弾丸列車計画も太平洋戦争の戦況悪化により完成しなかったが、同計画のために掘削されたトンネルや買収が進められた用地が、戦後の東海道新幹線の建設時に活用された。

 さらに勇次郎は、東京市内に高架鉄道を建設するという日本高架電気鉄道計画でも中心的役割を果たしたほか(これも残念ながら実現しなかった)、藤岡博士らが設立した白熱舎(後に東京電気。東芝の源流の1つとなる)取締役に就任するなどしている。

 そして、晩年には養老鉄道(後に近鉄養老線。現・近鉄グループの養老鉄道)や、揖斐川電力(現・イビデン)の社長に就任し、郷里の西濃地方における交通・産業基盤の形成に努め、1925年に64歳で没している。

桑名(三重県桑名市)と揖斐(岐阜県揖斐川町)を結ぶ養老鉄道も勇次郎が創業した(2019年筆者撮影)

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