入社早々、シリコンバレーへの渡航を決断:挑戦者たちの履歴書(10)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、漆原茂氏の沖電気入社までを取り上げた。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
1987年、東大工学部を卒業した漆原氏は沖電気工業株式会社(以下、沖電気)に入社する。配属されたのは、ミニコンのソフトウェア開発を行っている部署。当時、沖電気のミニコンはハードウェアもOSも自社内で開発していた。同氏はこの部署で、具体的にどのような仕事に携わっていたのだろうか?
「OSのカーネルの中のデバイスドライバなどを開発していました。フロッピーやハードディスクなどの装置を制御するプログラムですね。あとは、もろもろのツール類の開発も行っていました。例えば、“copyコマンド”のようなOSのコマンドラインツールなどですね」
まさに、ずっとやりたいと思い続けてきた「コンピュータを作る」仕事に就けたわけである。さぞかし、充実した日々ではなかったのだろうか?
「開発現場での仕事は、面白かったですね。それに、諸先輩方が非常に優秀だったので、『どうやったらこの人たちに追い付けるのだろうか?』と日々考えていました」
そこで取った行動が、また何とも漆原氏らしい。何と、当時台頭しつつあったUNIXのカーネルのソースコードをすべて読み、内容をほぼ理解してしまったのである。しかも、特に会社から命令されたわけではなく、すべて自主的にやったことである。「それぐらいのことをしないと、先輩方に勝てないと思ったんです」
こうしてミニコンのソフトウェア開発に従事しつつ、UNIXの研究を独自に進める。そんな日々を2年ほど送った後、同氏はある1つの結論に達する。
「もう、ミニコンの時代ではない」
これからは、UNIXを中心としたオープン系の技術が主流になる。独自プラットフォームのミニコンは、これに取って代わられる。そう確信したのだ。
ちょうど漆原氏がUNIXへの興味を深めていた1980年代後半は、シリコンバレーを中心にUNIXの世界が目まぐるしく動いた時代でもあった。AT&TがUNIXのライセンス提供を開始し、各メーカーが自社のハードウェア上にUNIXを搭載した商品を開発・販売し始めていたころだ。一方で同じ時期、カリフォルニア大学バークレー校で開発されたBSD系UNIXもこの時期に大きく発展することになる。後にエンタープライズUNIXの市場を席巻することになるサン・マイクロシステムズが台頭してきたのも、ちょうどこの時期だ。
当時、こうした動きを逐一リアルタイムに追っていた漆原氏が、「いつまでもミニコンをやっている場合ではない」と焦りを強く感じ始めたのは、ある意味自然なことだったといえよう。そのころのことを振り返って話す漆原氏の熱心な口ぶりから、当時のUNIXへの傾倒ぶりがうかがえる。
「AT&TのSystem V Releaese3や、3B2コンピュータだとか、そういうのを見ていると、『どう見ても、ミニコンよりこっちだろう。なぜこっちをやらないのか?』と思いましたね。すごい連中が作ったものを、皆が使いたがっている。これは当然、近いうちにメインストリームになるはずだと確信しました」
最先端を常に追い続けてきた。最先端のことをやりたくて東大の工学部に入り、そして沖電気に入った。そしていま、コンピュータの世界の最前線は、UNIXの総本山であるシリコンバレーにあるらしい。当然、漆原氏はアメリカ西海岸の彼の地に思いをはせる……。
「カリフォルニア大学バークレー校やスタンフォード大学にサン、アップル、ヒューレット・パッカード(HP)、ゼロックスパーク(パロアルト研究所)、DEC……。とにかく、コンピュータの最先端がシリコンバレーに集まっていたんです。一体そこには、どんな連中がいるのだろうと、気になって仕方がなかった」
最先端にとことんこだわり続けてきた漆原氏は、もう居ても立ってもいられなくなったに違いない。そして、決断する。
「これはもう、シリコンバレーに行くしかない!」
同氏が沖電気に入社してまだ3年目、1989年のことだった。そのころ日本国内はバブル景気の真っ只中、空前の好景気に沸いていた。
この続きは、6月4日(金)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
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