入社3年目でシリコンバレーへ留学:挑戦者たちの履歴書(11)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、漆原茂氏が入社するまでを取り上げた。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
常にコンピュータの最先端を追い続けてきた漆原氏。
東大工学部を卒業後、沖電気工業株式会社(以下、沖電気)に入社してミニコンのソフトウェア開発に従事するも、UNIXを知り、そして当時の最先端の研究がシリコンバレーで行われていることを知る。自分の目でどうしてもその最先端の姿を確かめたかった同氏は、ついにシリコンバレー行きを決意するに至る。1989年、同氏はまだ24歳の若さだった。
当初は、会社を辞めて渡米しようと思っていた漆原氏だが、その前にまずは沖電気の社内留学制度に志願してみた。ところが意外なことに、これが認可される。沖電気に入社して、まだ3年目のことだ。
「普通は3年目の若造を海外に行かせるなんて、とても考えられない話です。これは、会社の上の方々にそれだけの度量があったのですね。当時自分自身では、生意気にも『行って当たり前だ』ぐらいに思っていましたけど、後になってからは、会社には本当に感謝しました」
また当時は沖電気はもちろん、世の中全体が「人に投資することの価値」を認めていたように思う、と同氏は続ける。何か面白そうな技術が世界のどこかで興っていたら、「若手でもいいから、分かりそうな人間を取りあえず張り付かせておけ」ということを、どのメーカーでもやっていた。
一方、それに比べて今日の状況はどうだろうか?
「本当は、いまの状況についてコメントできる立場ではないのですが」と前置きしながらも、漆原氏は次のように語る。
「わたしの偏見かもしれませんが、いまはみんなすぐ、『それはビジネス的にどうなのか?』『それは本当に儲かるのか?』といったことを言い出しませんか? 一昔前と比べると、世の中全体の風潮が短期的な利益ばかりを重視しがちになっているような気がします」
もちろん、こうした風潮はその時々の経済状況に大きく左右される。「100年に一度の不況」といわれる現在の不景気ぶりに比べて、1989年当時はバブル景気の絶頂期。その年の終わりには、日経平均株価が史上最高値の38915.87円をつけている。この時代、どの企業にも余裕があったのだ。当時を思い返しながら、漆原氏もこう語る。
「確かにあの時代は、何をやっても許されるような雰囲気があって、とても面白かったですね。要するに、やっぱりみんな余裕があったんですね、当時は」
こうして、当時若干24歳の漆原青年は、晴れてシリコンバレーへ渡ることになる。赴任先は、スタンフォード大学のコンピュータシステム研究所。留学はもちろんのこと、海外へ渡航するのも初めての経験。英語の勉強は嫌いで、これまでまじめに勉強したことがない。そんな状態で渡米することに、不安はなかったのか?
「まったくなかったですね。だって、目的ははっきりしていましたし、もう『行く!』って決めたんですから」
この行動力、フットワークの軽さは、さすがと言わざるを得ない。漆原氏は、行動の人なのだ。理系で頭が切れるタイプというと、研究室の中でひたすら沈思黙考しているステロタイプの人物を筆者などは思い浮かべてしまうのだが、同氏はむしろまったく逆のタイプだ。これまでの同氏の足跡を振り返ってみても、東大工学部への進学、メーカーへの就職、そして渡米……。「うだうだ考えている暇があったら、とにかく動く!」といった感じだろうか。
そして、今後おいおい紹介していくが、こうした持ち前の行動力はこの後ますます発揮されていくことになる。もちろん、漆原氏のこうした一見大胆に見える行動も、筆者のような凡人が思い付かないほど綿密な公算によって裏付けられているのだろうが……。
さて、漆原氏がシリコンバレーにおける身の置き所として選んだのが、前述の通りスタンフォード大学のコンピュータシステム研究所である。スタンフォード大学といえば、シリコンバレーのほぼ中心にキャンパスを構え、これまでIT業界の名だたる人物を輩出してきた名門中の名門である。
同校出身のIT業界のキーマンといえば、ヒューレット・パッカード(HP)の創始者であるウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカード、サン・マイクロシステムズ共同創始者のスコット・マクネリ、Yahoo!共同創始者のジェリー・ヤン、シスコシステムズ共同創始者のレン・ボサックとサンディー・ラナー、そしてGoogle共同創業者のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン……と、枚挙に暇がない。「シリコンバレーは、スタンフォード大学出身者の学閥によって支配されている」と言う者もいるぐらいである。
漆原氏にとって、シリコンバレーでコンピュータの最先端を肌で感じ取るためには、これ以上はない環境だったといってもいいだろう。
この続きは、6月7日(月)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
- 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 苦心したコミュニティとの関係構築
- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
- 聴力を失っても頑張り続けたネスケサポート
- 出産3時間前まで開発を続ける
- 結婚式の翌日には米国にとんぼがえり!
- “MOJIBAKE”を一般語化させる
- ネスケ本社のいい加減なテスト方法に驚愕
- 肌で感じた日米の“エンジニアへの待遇格差”
- 社会貢献が開いたブラウザ活動への道
- 出戻り先の東芝で出会った運命の相手
- 通勤前後に水泳インストラクターをこなす超人
- UNIXに一目ぼれし、ゼロックスへ転職
- 先輩にうまく乗せられて覚えたFORTRAN
- 不純な動機で選んだ就職先
- バスケにバイトにバンド、堪能した大学時代
- 宇宙工学を学ぶはずがなぜかバイオ方面へ
- 雪深い地の伝統校に通った高校時代
- とことんやり、スパッと見切りをつける
- とにかく頑固でわが道を行く少女時代
- “王者IE”に挑み続けた反骨の母
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