スタンフォードで友達を100人作る:挑戦者たちの履歴書(13)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、漆原茂氏がシリコンバレーに留学するまでを取り上げた。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
若干24歳にして、当時所属していた沖電気工業株式会社(以下、沖電気)の支援を受けてスタンフォード大学コンピュータシステム研究所に客員研究員として赴いた漆原氏。そこでは実際に、どのような活動を行っていたのだろうか?
「それまで沖電気でやっていた開発の仕事とは毛色が違って、理論面の研究を主にやっていました。もし英語でよろしければ、当時わたしが書いた論文がネット上で公開されているはずですよ」
その場で早速、同席していた広報担当者に検索してもらったところ、ほどなくして見つかった。論文のタイトルは、“The impact of operating system scheduling policies and synchronization methods of performance of parallel applications”。日本語に訳せば、『OSのスケジューリングポリシーと同期方式が並列アプリケーションの性能に与える影響』といったところだろうか。
「この論文は、1991年に教授と一緒に書かせていただきました。内容を一言でいうと、マルチプロセッサOSのスケジューラとCPUアーキテクチャに関する研究です。シリコングラフィックスなどの高性能な並列処理マシンを扱う企業からの委託研究でした」
同氏がかみ砕いて説明してくれたところによると、画像処理や弾道計算、科学技術計算など、極めて高い性能が要求される並列処理アプリケーションでは、OSのスケジューラをどのように設定すればメモリキャッシュを使ってより性能が出るようになるか、といった内容なのだそうだ。
ちなみに取材が終わった後、この論文の冒頭部分を少し読んでみたのだが、OSの内部の話にまったく疎い筆者には到底理解できる内容ではないと、早々に放り出してしまった……。しかし、OSのカーネル、特にスケジューラおよびその周辺部分に関心がある方にとっては、大変興味深い内容であるに違いない。興味のある方は、ぜひ一読されてみてはいかがだろうか。
ところで、コンピュータシステム研究所には、同氏のほかにはどのような企業の研究員が来ていたのだろうか?
「わたしがいた部門は、日本企業からの客員研究員を多く受け入れているところで、日本のメーカーの方々が結構いらっしゃいました。わたしは当時24歳だったのですが、ほかの皆さんは30代中盤ぐらいで、結婚されている方も多かったですね。当時はバブル景気でどの企業も気前が良かったので、『課長になる前に、いままで頑張ったご褒美として、1年ぐらい羽根を伸ばしてこい』みたいな感じで来られている方もいらっしゃったようです」
バブル景気のころは、功労のあった社員に対して、このような「社内留学という名のロングバケーション」が与えられることも珍しくなかった。ちなみに、筆者が社会に出たのはちょうどバブル景気が崩壊した年だったが、当時の先輩社員の中には「半年間、ハワイで遊ばせてもらった」「1年間、イギリスでのんびり過ごした」と話す者もいて、随分うらやましく感じたことを思い出す。現在では、とても考えられないような話だ。それぐらい、バブル景気の時代にはどの企業にも余裕があり、良くも悪くも気前が良かったのだ。
もちろん、羽根を伸ばすためではなく、本当に高い志を持ってこの時期に海外に飛び立った人も数多くいる。言うまでもなく、漆原氏もその中の1人だ。
「わたしは年齢的にも学生に近かったので、日本から留学される方よりもスタンフォードの学生の友達が多かったですね。日本語をほとんどしゃべらない環境でした」
だからといって、日本人との接触を絶っていたわけではない。沖電気は現地にオフィスを構えており、日本から先輩や同僚が頻繁に訪れていた。
「ツアーコンダクターのように先輩や同僚の現地案内をしたことも度々ありましたが、おかげでいろいろと情報交換をさせてもらい、決して日本の動向から取り残されているという感覚はありませんでした」
では、現地の人やほかの国からやってきた人々とは、頻繁な交流があったのか?
「それはもちろん! だって、『友達100人作る』と思ってスタンフォードにきたんですから! 向こうで出会った面白い連中とは、いまだに交流があります」
一体、彼の地でどのような出会いがあったのだろうか?
この続きは、6月11日(金)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
- 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 苦心したコミュニティとの関係構築
- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
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