思ったほどではなかったシリコンバレーと日本の差:挑戦者たちの履歴書(14)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、漆原茂氏がシリコンバレーに留学するまでを取り上げた。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
スタンフォード大学コンピュータシステム研究所に客員研究員として赴いていた2年間、実に多くの出会いがあったという漆原氏。
「研究所やその周辺の人々はもちろんですが、“友達の友達”という形でどんどん交流の輪が広がっていきました。例えば、クリスマスパーティーやニューイヤーパーティーなど、大きなパーティーがしょっちゅう行われていて、友達に誘われて行くと、そこでまた面白いやつがいて友達になったり、今度はまたその友達を紹介してもらって……」
スタンフォード大学はもちろんのこと、シリコンバレーにあるそのほかの教育機関や企業には、米国のみならず世界各国から優秀な人材が集まっている。さぞや、いろんな国の人々と交流できたのでは?
「それはもう、インド人に中国人、フランス人、イタリア人、チリ人、イラク人……。こう考えてみると、意外とアメリカ人の友達が少ないんですけどね。でも、これだけ世界中から面白くて優秀な人間が自然と集まってくる文化というのは、素晴らしいと思いましたね」
こうして当時親しくなった世界各国の友人の多くとは、現在でも交流を続けている。当時スタンフォード大学でコンピュータ関連の学生や研究員だった者のほとんどは、そのままシリコンバレーに残って現地のIT企業に就職するか、もしくは本国に戻って起業している。漆原氏が現在活動拠点を置く日本とは地理的に遠く離れており、お互いに多忙であるため、直接会う機会はなかなか持てない。
しかしそれでも、相手が出張のフライトのトランジットで日本に寄るわずかな時間を縫ってでも、直接会いに行って東京を案内することもあるという。
あるいは逆に、漆原氏が米国に出張する際には、「ホテルをとるのが面倒だから、泊まらせてくれよ」と気軽に相手の自宅に泊まりに行ったりしているという。もちろん、メールや電話での連絡や情報交換は頻繁に行っている。後述するが、こうしてスタンフォード大学時代に築き上げた情報ネットワークが、現在の同氏の仕事にも大いに役立っているのだ。
ところで、筆者のような凡人は、同氏のように世界の最先端の舞台で各国の猛者たちと渡り合うようなことは、“選ばれたごく一部の人間にのみ可能なことなのだ”と考えがちだ。しかし同氏は、スタンフォード大学での2年間を経た後、次のような考えを持つに至った。
「2年間スタンフォード大学にいて分かったのは、『みんなすごく面白くていいやつだな』ということと、『本場が日本と比べて学術的にかけ離れてすごいかというと、そうでもない』ということ。年齢も関係なく、若くても積極的にコミュニケーションし主張することが大切。日本の技術者も、本場の連中と同じ舞台で十分通用すると思いました」
例えば、漆原氏はOSのカーネル専門家としてスタンフォード大学に赴いたが、同氏の目から見ると、当時のスタンフォード大学の学生は「OSやカーネルのことなど、ちゃんとは知らない」という。
「コテコテのプログラミングの世界であれば、こっちの方が全然上だな、と思いました」
それまではあこがれの対象であったシリコンバレーだが、実際に自分の目で見て、肌で感じた結果、「結局何だかんだと言っても、彼らもわれわれも同じ技術者で、同じようなことを目指している。『面白くて良いやつらが、大きな夢を持って切磋琢磨している』。それこそが最先端の姿であることが分かりました」。
当時のコンピュータ研究の最先端を身を以て体験した同氏は、「研究者としてはともかく、一技術者としてなら本場でも十分通用する」と確信するに至った。日本国内で切磋琢磨している技術者の方々にとっては、何とも心強い言葉ではないだろうか。しかも、実際に単身シリコンバレーに乗り込み、成果を挙げてきた漆原氏の言葉だけに、重みがある。
こうして、スタンフォード大学で研究と異文化交流に没頭した2年間はあっという間に過ぎ、漆原氏は日本に帰国することになる。ときに1991年、同氏はまだ26歳の若さだった。
この続きは、6月14日(月)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
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- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
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- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
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