成功していたビジネスモデルを大きく転換:挑戦者たちの履歴書(21)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、漆原氏が起業し、順調に売り上げを伸ばすまでを取り上げた。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
2003年1月23日、ウルシステムズ株式会社(以下、ウルシステムズ)創業3年目の冬のことだった。
漆原氏が2000年7月に設立した同社は、当時はまだ大手メーカーやSIer(システムインテグレーター)が本格的に手を出せずにいた、Javaによる大規模基幹業務システム開発の領域で、急速に業績を伸ばしつつあった。
しかし、いまのままの路線で業務を拡大していって、本当にいいのだろうか? それで、当初会社を設立した目的であった「真に顧客の立場に立った」というバリューを本当に提供することができるのだろうか?
漆原氏は当時の主要メンバーを会議室に集め、次のように切り出した。
「3年間やってきて、いろいろ大変なこともあったけど、それなりに成果は出してきた。さて、じゃあこれからは、どのようにやっていこうか?」
考えられる道筋は、大きく分けて3つあった。
1つ目は現在のままの路線、すなわち「高級SIer」というビジネスモデルを続けていくこと。ただし、漫然と続けるのではなく、フルアクセルで突っ走って、5年間で売り上げ500億円を突破するぐらいの高いレベルを目指す。
2つ目は、とにかく顧客の満足度を絶対的に上げるために、顧客にべったり張り付いてコンサルティングを行うモデル。そのためには、会社の規模を縮小することも厭(いと)わない。いわば、個人事業主の集まりに近いビジネスモデルだ。
そして3つ目が、2つ目と同じく顧客と密接に連携しながらも、同時に自分たちに対しても投資しながら、面白いことにチャレンジしていこうという路線だ。
漆原氏らは話し合った結果、3つ目の道を今後のウルシステムズが歩むべき道として選択する。その場にいた者全員が、この路線を選んだ。
「1つ目はいわば大手SIerのモデルですから、やっていくうちに多かれ少なかれ、お客さまの価値観と相いれない部分がどうしても出てくる。その点、2つ目の路線ならお客さまは満足するかもしれません。しかし、こういう表現をすると怒られるかもしれませんが、これは『現役引退後のモデル』なんです。完全に個人コンサルタントの世界になってしまうんですね」
ウルシステムズはこのどちらでもない、第三の道を選んだ。
「顧客側 vs. 受注ベンダ側」という従来のSIの構図を乗り越え、自ら顧客側に入り込んでいき、なおかつ顧客と同じ立場に立って本当に価値のあるソリューションを一緒に作っていく。そうやって利益を確実に上げながら、同時に自分たちにとっても面白くチャレンジングなソリューションにも投資していく……。
この日以降、IT業界の大海原を旅するウルシステムズ号は、これまでのSI路線から、上記のような独自のコンサルティング路線へと舵が切られていくことになる。同じく2003年の年末には、当時ベンチャーキャピタルが保有していたウルシステムズの株式を、漆原氏を含む経営陣がMBO(マネジメント・バイアウト)によって取得する。
「2003年に、現在のビジネスモデルの原型を確立しました。そのために必要な会社の体制や構造の変更も、この年に一気に行いました」
顧客側と対峙する立場に立脚したSIやコンサルティングではなく、顧客側に入り込んで、顧客側の立場からプロジェクトを遂行していくサービス。これはまさに、漆原氏がやりたかったことそのものだ。
「顧客にとって『役に立たないシステム』がなぜできてしまうのかというと、発注側がよく分からないままに発注して、それを受けた受注側も分からないまま作ってしまうからです。契約上はそれでもいいのかもしれませんが、実際にでき上がってくるものは当然『使えないシステム』になってしまいます。ですから、われわれが発注側に入ってやるのは、『発注力を上げる』ということなのです」
「発注力」とは、聞き慣れない言葉だ。これは一体、どういうことを指すのだろうか?
この続きは、6月30日(水)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
- 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 苦心したコミュニティとの関係構築
- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
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