一生忘れられない失敗は“ガンプラ”:挑戦者たちの履歴書(26)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回からは、サイボウズの青野慶久氏を取り上げている。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
サイボウズの代表取締役社長 青野慶久氏に話を聞くために、同社の本社オフィスを訪れた筆者を出迎えてくれたのは、受付の女性……ではなく、同社の企業キャラクター「ボウズマン」の等身大人形!
赤い衣装にシルバーのヘルメット、同じくシルバーのマントを身にまとい、胸にはサイボウズの頭文字である「C」の文字が燦然と輝く。まるでアメリカンコミックから飛び出してきたかのようないでたちのボウズマンは、同社を訪れるどんな訪問者にも、分け隔てなくさわやかな笑みを投げ掛ける。
このボウズマン、同社のサイトによると「地球上のビジネスパーソンの危機を救うため日夜奔走しているイントラの星からの使者」なのだそうだ(何と、テーマソングまで存在する!)。企業キャラクターに限らず、同社のこうした遊び心溢れるマーケティングには、これまでも楽しませてもらってきた。2008年4月、同社が大規模企業向けグループウェア製品「サイボウズ ガルーン2」の新バージョン発表会を開催した際には、出席者になぜか巨大なせんべいが配られた。そしてそのせんべいには、次のような文字が。
「サイボウズ ガルーン2 もう小ちゃいとは言わせんべェ」
ボウズマンの人形を見上げながら、そんなことを思い返していると、同社の社員の方々が次々と脇を通り過ぎていく。そして、必ず皆が「いらっしゃいませ」と丁寧に頭を下げてくれる。その極めて丁寧な応対と、目の前にそびえ立つボウズマンと「言わせんべェ」……。そのギャップに若干頭が混乱したまま、会議室に通された。
ほどなくして、青野氏が足早に現れた。お互い手短にあいさつを済ませるが、とにかく動作が俊敏でキビキビしている。何かにつけ鈍な筆者と比較すると、すべての動作を倍速でこなしているようにすら見える。そして、何より本当に若々しい。いや、実際のところお若いのだ。同氏は1971年生まれだから、本稿執筆時点(2010年6月)ではまだ30代である。
あいさつもそこそこに、早速話を伺うことにする。幼少期はどのように過ごしたのだろうか?
「両親はどちらも四国出身で、父親が愛媛出身、母親が香川出身です」
青野氏は軽快な関西弁で自身の生い立ちを語り始める。おや、四国出身なのに関西弁?
「父親が転勤族で、2、3年周期で全国各地を転々としていたんです」
青野氏の父親の職業は警察の通信技術者で、全国各地の県警に転勤を繰り返していた。そのため、両親とも四国出身だったにもかかわらず、青野氏は転勤先の埼玉県浦和市で生まれた。その後、岡山県、愛媛の松山市などを転々とした後、8歳のときに父親が単身赴任となり、青野氏は愛媛県今治市の近郊にある父親の実家で18歳まで過ごすことになる。後述するが、同氏が関西弁を覚えたのは、高校を卒業してこの地を離れた後のことのようだ。
当時住んでいた土地は、青野氏いわく「スーパー過疎地」。
「小学校の生徒数が、全校合わせて72人しかいませんでした。ぼくがいた学年は同級生が16人いましたが、1つ上の学年は6人しかいませんでした。いまでは当たり前のように、その小学校は消滅してしまっています」
ちなみに、青野氏の父親は単身赴任後も各地を転々としたそうだが、筑波宇宙センターにも派遣されたことがあるという。相当腕利きの技術者であったに違いない。
「父親は典型的な理系人間で、自分で基盤の設計からするような電子工作を趣味でやっていました。ですから、わが家には父親が設計して作ったデジタル時計やラジオなどが、たくさん転がっていました。はんだ付けなどもお手のものでしたね。幼少時代はそういうのを見ながら育ちました」
現在は経営者として活躍する青野氏だが、こうした原体験の影響が強かったせいか、技術志向が強い子どもだったようである。では、父親をまねて自分でも電子工作などにチャレンジしたのでは?
「やりましたけど、全然ダメでした。とにかく手先が不器用なのと、性格的に落ち着きがないので、失敗ばかりでした。そうそう、失敗といえば“ガンプラ”(ガンダムのプラモデル)のことは一生忘れられません!」
ガンプラ? 筆者も幼少のころは、同じくガンプラに熱中した世代である。青野氏が「いまでも忘れられない」というガンプラのエピソードとは、一体何だったのだろうか?
この続きは、7月12日(月)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
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- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
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