想像と違っていた阪大生活:挑戦者たちの履歴書(34)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、青野氏が大学に合格するまでを取り上げた。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
1990年4月、高校を卒業した青野氏は、大阪大学工学部情報システム学科へ入学を果たす。これで晴れて、念願だったコンピュータの勉強に専念できるかと思いきや……。実際には、青野氏が想像していた大学教育の姿とはかなり異なっていたという。
「大学に入ると、まずは一般教養の講義が待っているわけですよね。当時のぼくは、大学に行けばもうこういう勉強はやらなくてもいいと思っていたんです。だからこそ受験勉強も一生懸命頑張ったのに、『なぜだ!』という思いを抱きました」
大学で好きなコンピュータのことだけを思う存分勉強したい。その一心で、まったく興味のわかない文系科目の勉強を自らに課した。ところが、いざ大学に入ってみると、待ち構えていたのはドイツ語に英語、社会学、心理学……。得意だった物理や数学にしても、高校で学んでいた内容とは比べものにならないほど難易度が高い。しかもその内容たるや極めて抽象的で、実社会とのつながりが見いだせなかった。
「大学で学ぶ物理学って、いわば空想の世界なんですよね。理屈上は説明できても、実際にその通りの現象が目に見えるわけではない。例えばエントロピー増大の法則なんて、数式では証明できるものの、目で見て理解できるものではないですからね。その点、高校で学ぶ物理は、目で見れば大体想像がつく“物理検証”の世界でしたが、これが大学の物理学になった途端にわけが分からなくなってしまったんです」
もともと中学・高校時代から、何事につけ「これは実社会で役に立つか?」ということを価値判断の基準にしてきた青野氏だけに、大学で学ぶ「高尚な学問」は、ますます実社会から遠ざかった、机上の世界に映ったのだろう。その結果、大学からはだんだんと足が遠のいていったという。
では、もうすっかり勉強を放り投げてしまったのかというと、そういうわけでもなかったという。大学でドロップアウトする学生というと、それこそ一切講義に出席せず、留年を繰り返したあげくに中退、というのがお決まりのコースだ。しかし青野氏は、何とか留年しない程度に、一般教養の苦手な科目にもついていったという。高校時代、勉強に対するモチベーションがまったくわかなかったにもかかわらず、何とか校内のトップ集団についていき、結果的に大学にも現役合格を果たした同氏の経験とダブるところがある。
「何だかんだといってもまじめなところがあって、高校時代と同じく、トップグループの最後尾には何とか食らいついていました。でも結局、最終的には大学卒業に必要なギリギリの数の単位しか取得しなかったんですけどね」
こうして大学に入学してからしばらくは、大学教育の理想と現実のギャップに失望する日々が続いた。しかし、さすがにいつまでもつまらない一般教養の講義ばかりが続くわけではない。3年生になると、ようやくコンピュータに関する基礎的な学問を教えてもらえるようになった。さらに4年生まで進級すれば、研究室に入ってコンピュータの研究に専念できる。青野氏はようやく生気を取り戻す。
「3年生になり、講義でプログラム言語の理論やデータベース理論などが学べるようになってきて、少しワクワクしてきました。演習でプログラムを書いたりしましたが、ぼくは中学生のころからプログラミングをやっていましたから、同級生の中ではプログラミングが早かった」
ようやく、本来やりたかった勉強ができるようになった。さぞや、モチベーションが上がったことだろう。当然、このままコンピュータの研究の道にまい進する……。かと思いきや、このとき同氏はある意外な決断を下していた。
「ぼくがいた大阪大学工学部では、大学を卒業した学生の7、8割は大学院に進学していました。しかしぼくは、4年生に進級するころには、『大学院には行かずに就職しよう』と決めていました」
ようやくコンピュータの勉強に専念できる環境を手に入れたというのに、これは一体どういうことだろう?
「大学では、直接社会の役に立つ実践的な学問を多く学べると思っていたんです。しかし、実際に大学に入ってみると、どちらかというと机上の理論を追い求めているような印象がありました。『これはぼくの体質には合わない』と思ったのです」
一般教養の学問だけでなく、大学に入る唯一のモチベーションであったコンピュータの学問に関しても、「実社会で役に立つかどうか」という同氏の価値判断基準を満たすことができなかったのだ。結局、4年生になり同氏は研究室に入ることになるが、このとき早くも、卒業後にプログラマとして企業に就職することを次の目標に据えていた。
この続きは、8月2日(月)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
- 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 苦心したコミュニティとの関係構築
- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
- 聴力を失っても頑張り続けたネスケサポート
- 出産3時間前まで開発を続ける
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