知名度ゼロの会社を認知させるためのワザ:挑戦者たちの履歴書(69)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、宇陀氏がセールスフォース・ドットコム社長に就任するまでを取り上げた。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
2004年4月に米セールスフォース・ドットコムの日本法人である株式会社セールスフォース・ドットコムの代表取締役社長に就任した宇陀氏。米セールスフォース・ドットコムは同年6月にニューヨーク証券取引所への株式上場を果たし、米国市場で急速に売り上げを伸ばしつつあった。しかし、日本はといえば、一部の先進的なユーザーからは注目を浴びていたものの、まだまだ一般的に認知されているとは言いがたい状況だった。
そこで宇陀氏が真っ先に手を付けたのが、日本市場におけるセールスフォース・ドットコムの認知度を上げるためのブランディング戦略だ。ここで同氏は、ちょっと変わったやり方を採用する。
「アメリカではとかく『他社は関係ない、とにかくわが社が1番!』というマーケティングメッセージを出したがるんだけど、僕はそうではなくて、『Google』『Amazon』『eBay』そして『セールスフォース』の4社を並べて、『ITバブル崩壊後に勝ち残った4社』というふうに説明する方法を採った。GoogleやAmazonのことは誰もが知ってるから、それと並べて名前を出すことによって印象が残りやすいですよね。で、じゃあ残りの3社とセールスフォースの違いはどこにあるかと聞かれたら、『ほかはB2Cですけど、ウチはB2Bです』と説明する。『GoogleのB2B版です』と言えば、分かりやすいでしょ?」
これは、日本独特の「横並び感覚」を逆手にとった戦略でもあったのだろうが、確かに印象に残りやすい。宇陀氏は社長就任当初、この「4社の内の1社」というメッセージを打ち出すブランディング活動に相当力を入れて取り組んだという。では、当初はこうしたブランディング活動に専念していたのか?
「とんでもない! こんな零細企業が、のんきにそんなことやってられないですよ。やっぱり、売り上げという成果を上げ続けないと、社員も付いて来ないし米国本社のサポートも受けられないですから。いくら『おれは社長だ!』なんて威張っていても、結果が伴わなければ誰も付いてきません。これからのリーダーというのは、結果を出すことで信頼を勝ち得て、人を引っ張っていくもんだと思いますよ」
なるほど、当然といえば当然だが、ビジネスのシビアさはどんなときでも付いて回る。では、日本市場での売り上げを伸ばすために、具体的にどのような戦略を採ったのだろうか? 宇陀氏は「グローバルとインターナショナル」というキーワードを挙げる。
「“グローバル”というのは『全世界が1つ』という意味で、例えばブランドやテクノロジ、クオリティなんかがそれに当たります。一方で、文化や商習慣、法律、言語など、各国ごとに特有の事情も当然あって、われわれはこちらの方を“インターナショナル”と呼んでいるんです。外資系企業ではとかく、本国から外人が来てグローバルの基準を押し付けたがることが多いんだけど、日本のお客さんに特有の事情、すなわちインターナショナルの方を無視していくら『グローバル、グローバル』と言ったって、うまくいくはずがないですよ。グローバルとインターナショナル、両方の視点が必要なんです」
一例を挙げれば、セールスフォース・ドットコムのWebサイトだ。同社のWebサイトは基本的には“グローバル”、すなわち世界中のすべての支社や現地法人で共通のデザインを採用している。しかし、日本法人の社長に就任した宇陀氏は、当時のサイトを見るなり「陰気くさい! もっと明るいデザインに変えよう」。
「サイトの担当者は『いや、これはワールドワイドで共通のデザインにするように決まってますから』と言うんだけど、もうめちゃめちゃ地味で、何だか荒涼としていてね。おまけに文字が灰色だったもんだから、『香典袋の文字じゃないんだから!』って言って、ほぼ独断で明るいデザインに変えちゃったんですよ!」
後に、CEOのマーク・ベニオフ氏がたまたま日本法人のサイトを目にする機会があり、「なぜ日本のサイトだけカラフルで、デザインが違うんだ?」と本社の担当者に尋ねたという。「宇陀さんがさせたのか?」と。そして、叱責を恐れた担当者がおずおずと「多分……」と答えると、ベニオフ氏はこう言ったという。「うん、これこそが真のグローバルだ!」
「ばかな経営者だったら『何でおれの言うことを聞かないんだ!』となるんでしょうけどね。さすがはマーク・ベニオフ。ちゃんと分かってるんですよ」
この続きは、11月15日(月)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
- 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 苦心したコミュニティとの関係構築
- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
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- 結婚式の翌日には米国にとんぼがえり!
- “MOJIBAKE”を一般語化させる
- ネスケ本社のいい加減なテスト方法に驚愕
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- 宇宙工学を学ぶはずがなぜかバイオ方面へ
- 雪深い地の伝統校に通った高校時代
- とことんやり、スパッと見切りをつける
- とにかく頑固でわが道を行く少女時代
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